大正3年東京、駒沢村に生まれた東京ゴルフ倶楽部は、4年目には早くも地代値上げに悩まされ、移転先探しを始める。選定委員の浅野良三が、横浜市郊外保土ヶ谷区常盤台にまとまった土地を探し当てたことからはじまる。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

大正10年5月30日、資本金15万円で保土ヶ谷ゴルフ株式会社(昭和18年、保土ヶ谷林園に改称)を設立。買収3万坪、借地5万7000坪でスタートした。

株式会社がゴルフ場施設を造り、倶楽部に無償貸与する方式を採用したのは、程ヶ谷が第1号、今はそれがセオリーとなっている。

画像: 16番ホール/376㍎/パー4 ティグラウンドから左側のラフに沿ってグリーン手前まで池があり、ティショットの狙いはフェアウェイの右側。2打地点からフェアウェイは池に向って左傾斜

16番ホール/376㍎/パー4 ティグラウンドから左側のラフに沿ってグリーン手前まで池があり、ティショットの狙いはフェアウェイの右側。2打地点からフェアウェイは池に向って左傾斜

大正11年2月24日、程ヶ谷カントリー倶楽部創立。副会長・井上準之助、キャプテン・森村開作(市左衛門)。同年10月15日9ホール開場、翌12年4月22日18ホール・6109㍎・パー69が本開場。

設計は浅野の知人で米国スコーキーゴルフクラブのプロ、W・フォバーグ(昭和10年赤星四郎設計で6500㍎、パー72に改造)。

開場間もない9月1日、関東大震災が発生。翌13年1月〜4月の間、復旧のため閉鎖した。

大正15年9月、日本アマを開催、赤星四郎、六郎が兄弟でプレーオフ、四郎が優勝。昭和2年5月第1回日本オープンでは、赤星六郎が優勝。

画像: 13番ホール/506㍎/パー5 約30㍎の打ち下ろしで、2打地点からはわずかに打ち上げになる

13番ホール/506㍎/パー5 約30㍎の打ち下ろしで、2打地点からはわずかに打ち上げになる

戦争で敷地内一部が開墾された時代もあった

昭和16年12月8日太平洋戦争勃発。農作部を作り敷地内を一部開墾、プレーの後に一鍬入れる義務をつくった。昭和17年7月陸軍照空部隊が駐屯。20年4月9日遂に閉鎖を決議。

昭和20年8月15日敗戦。空襲は免れたが9月20日米軍が接収、18番グリーンに野砲8門を据えた。コースは米軍が復旧、ハウスは第8軍将校クラブとなる。接収解除は昭和28年4月だった。

昭和28年3月新クラブハウス落成。昭和30年代に入って、コース内を横断していた道路が、いわゆる〝ワンマン道路〟と接続、拡幅されたため、11番〜14番が離れ座敷となり、遂に昭和42年12月10日、横浜市西郊外上川井の現コースへ移転となった。

程ヶ谷カントリー倶楽部
開場日:大正11年10月15日
コース:18H/6797Y/P72
設計:赤星四郎
神奈川県横浜市旭区上川井町1324 ☎045-921-0115

取材・文/田野辺薫

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