昭和4年4月、小田急江ノ島線が開通した。同社では、沿線100万坪に林間都市開発を計画、その中心にゴルフ場を考えた。最初に話に乗ったのは、駒沢からの移転先を探していた東京ゴルフ倶楽部だったが、結局不調に終わる。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

コース予定地は、平坦な原野、土質は大粒な富士火山灰の堆積地。80尺(約27〜30㍍)下にはたっぷりと地下水層、地上には川も沼もある。内陸ではあるが、土壌条件はリンクスランドそのものだった。

「いかにも惜しい……」と、男爵・伊藤文吉(伊藤博文の次男)ら7人が発起人となり、新倶楽部「相模カンツリー倶楽部」の創設に動いた。呼びかけた相手は、満鉄、正金、三菱、内務省などのサラリーマン。

入会金は100円、月賦もありのローン募集第1号のクラブだ。コース設計は赤星六郎。彼の処女作だった。

画像: 8番ホール/324㍎/パー4(ペンクロスグリーン) 短いがフェアウェイ両サイドにバンカー、グリーン手前のバンカーも効いている

8番ホール/324㍎/パー4(ペンクロスグリーン) 短いがフェアウェイ両サイドにバンカー、グリーン手前のバンカーも効いている

画像: 4番ホール/550㍎/パー5 1番でスタートした後、この4番でクラブハウスの正面に戻ってくるレイアウト

4番ホール/550㍎/パー5 1番でスタートした後、この4番でクラブハウスの正面に戻ってくるレイアウト

六郎は「幾何学的ではなく、芸術的なものに仕上げようと夢とを込めた」と語っている。コースは平坦、変化を付けるために66個(現在は106個)のバンカーを配置、仮開場後「相模は難しい」と評判になった。

本開場は、昭和8年7月。会員数610名。昭和11年4月社団法人認可。そして世は戦争へ入っていく。

昭和19年、陸軍第9科学研究所に徴発され、9ホールだけの使用となる。

昭和20年4月、陸軍農耕隊が駐屯、開墾栽培を始めたためゴルフ場は休場。終戦時、無傷のホールは5、9、10、18番ホールだけだった。受難は続く。翌21年米軍が将校団クラブとして使用を申し入れた、その10日後、クラブハウスが全焼した。火元は2階、クリスマス準備の不始末だったらしい。

画像: 16番ホール/337㍎/パー4 フェアウェイの左右にバンカー、グリーンは奥に広がる形状

16番ホール/337㍎/パー4 フェアウェイの左右にバンカー、グリーンは奥に広がる形状

画像: 18番ホール/471㍎/パー4 2つのグリーンそれぞれを5つのバンカーがガードする

18番ホール/471㍎/パー4 2つのグリーンそれぞれを5つのバンカーがガードする

戦後、5ホールから再開場

昭和22年1月2日、40坪の仮ハウス、5ホールのコースで仮開場、戦後の再開場となった。その年の6月に18 ホールを回復させた。本クラブハウスが完成したのは、昭和40年9月。焼失以来、18年間も仮ハウスでの運営だった。

画像: 大きな屋根が特徴的な平屋造りのクラブハウス

大きな屋根が特徴的な平屋造りのクラブハウス

緑青の屋根をコース側に傾けて見えるクラブハウスと、オーバーハングの深い壁をもったバンカーに代表されるクラシックな表情のコースは、日本ゴルフ史の中の生きた文化遺産である。

画像: 戦後、5ホールから再開場

相模カンツリー倶楽部
開場日/昭和6年9月
コース/18H/6611Y/P72
設計/赤星六郎
神奈川県大和市中央林間7-1-11 TEL.046-274-3130

取材・文/田野辺薫

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画像: golfdigest-play.jp
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