仙台には銘酒「浦霞」がある。仙塩ゴルフ倶楽部は「浦霞」と関係がある。昭和初年、東北地方にゴルフコースはまだなかった。当時、仙台の中心地から5分、第2師団射撃場に隣接する分譲地を借りて、間に合わせの12ホールのサンドグリーンでプレーしていた同好グループがあった。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

中心に「浦霞」醸造元佐浦菊次郎がいた。昭和8年、グループは、塩釜上の原の松島を見下ろす海岸に本格的な18ホールを計画、設計を赤星四郎に依頼する。

画像: 5番ホール/308㍎/パー4打ち下ろしで、ホール全体はローリングしている。フェアウェイ中央の松を避けてグリーンを狙いたい

5番ホール/308㍎/パー4打ち下ろしで、ホール全体はローリングしている。フェアウェイ中央の松を避けてグリーンを狙いたい

赤松を伐ればすぐにもコースになりそうな地形で、赤星は「ヒリーでなくフラットでなく、感じは廣野のカミングインの水のないところ」と評している。

まったくの手造りで工事は意外に手間取り、昭和10年10月1日6ホールで、前身の仙台カントリー倶楽部が開場。東北初、芝のグリーンをもつゴルフ場だった。

芋畑を免れ、米軍が復活を後押し

大いに賑わったが、昭和19年10月、軍事養成所食糧増産所の名目で国が買収、解散。しかし芋畑になる前に終戦。コースは荒れずに済んだ。復活は米軍がもたらした。

昭和21年多賀城駐屯米軍のレクリエーション施設に接収され、コース復旧に佐浦菊次郎が協力を求められた。米軍は、残り3ホールを造成、カマボコ兵舎のクラブハウスを造った。

画像: 大きく育った松が、上空のハザードとなる

大きく育った松が、上空のハザードとなる

画像: 倶楽部の方針は「歩きゴルフ」。乗用カートはなく、バッグ運搬専用カート

倶楽部の方針は「歩きゴルフ」。乗用カートはなく、バッグ運搬専用カート

画像: クラブハウスの入口。立派な赤松に囲まれた佇まい

クラブハウスの入口。立派な赤松に囲まれた佇まい

昭和27年、講和条約成立とともに接収解除。同時に佐浦は仙塩ゴルフを設立、コースをウラカスミコースとした。その後も米軍の来場は続き、クラブチャンピオンは第1回から5回まで米軍将校で占められている。

【仙塩ゴルフ倶楽部浦霞コース】
開場日/昭和10年10月1日
コース/9H/2889Y/P36
設計/赤星四郎
宮城県塩釜市庚塚1
☎022-364-3321
公式ホームページはこちら

取材・文/田野辺薫

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

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