昭和27、28年頃、関西のゴルフ好きは年に1回、川奈へ遠征して遊ぶために「汽車賃からプレー費まで全体で年間概算4000万円を掛けていた」と、白浜ゴルフ倶楽部の年史は綴っている。「もったいない、関西のカネは関西に落とすべし」と考えた、ある企業の青年重役がいた。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

「関西の川奈を造るとすれば、それは白浜だ」と考えた青年重役。和歌山製塩の役員、38歳の田中一也だった。白浜は絶好の海洋リゾート地だ。ゴルフコースがないのがおかしいという考えは、確かに戦前からあった。

昭和5、6年頃、上山勘太郎、下村海南も計画、昭和12、13年には大阪で「淡輪コース」を造り上げた南海電鉄の寺田甚吉が動いたが戦争により挫折。

その寺田はまだ健在で、田中が相談しに行くと「白浜に、ゴルフコースは是非必要」と大賛成、用地も県営種畜場の「平草原がよかろう」と助言した。県との交渉も順調、小野真次知事は計画の発起人代表となるなど積極的だった。

和歌山の財界だけでなく、大阪財界も応援

“関西の川奈”構想は、おおいに関西のナショナリズムに訴えたらしい。平草原18万坪の一部が使えず隣接する開拓農地の転用問題が起きたとき、機転をきかせたのは社会党左派の代議士、辻原弘市だったとの秘話も残る。

昭和30年10月13日、白浜開発株式会社の設立には、和歌山県が100万円出資している。和歌山財界だけでなく、大阪財界も応援した。

造成は一年足らずで、昭和31年5月に完成、7月15日仮オープン、8月14日本開場。設計は日本アマ4勝、伝説の名手、佐藤儀一と助手、松山桂司。

狭いフェアウェイ、砲台の小さいグリーンが持論の佐藤だが、白浜は例外。リゾートらしく箱庭的に海の眺めが美しい、エンジョイコースが造られた。

画像: 3番ホール/175㍎/パー3 打ち下ろしで、手前から攻めるのが好結果になる。海風が強くクラブ選びに悩むホール

3番ホール/175㍎/パー3 打ち下ろしで、手前から攻めるのが好結果になる。海風が強くクラブ選びに悩むホール

画像: 15番ホール/220㍎/パー3 海に向かって打つ距離のあるパー3。グリーンはバンカーに囲まれている。海風が強く、夏と冬では手にするクラブは大きく変化する

15番ホール/220㍎/パー3 海に向かって打つ距離のあるパー3。グリーンはバンカーに囲まれている。海風が強く、夏と冬では手にするクラブは大きく変化する

画像: 16番ホール/380㍎/パー4 右にドッグレッグしていく。2打目は打ち上げ

16番ホール/380㍎/パー4 右にドッグレッグしていく。2打目は打ち上げ

画像: 3番ホールわきから、南海の眺め

3番ホールわきから、南海の眺め

しかし、コースはその後、手をつけなかったのは8番ホールだけというほど改造に次ぐ改造(改造設計、松山桂司)が続けられて、5800㍎・パー70から6110㍎・パー72 と骨太く変わった。

初代支配人に、昭和30年日本女子アマチャンピオン・伊沢鈴子(理事)が就任、話題となった。

今昔の白浜ゴルフ倶楽部

白浜ゴルフ倶楽部
和歌山県西牟婁郡白浜町2927-1 ☎0739-42‐2955
開場日:昭和31年8月14日
コース:18H/6110Y/P72
監修:佐藤儀一、松山桂司
公式ホームページはコチラ

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

取材・文/田野辺薫

お問い合わせ

お問い合わせ方法を下のボタンから選んでタップください。

気になるコースの最新会員権相場はこちら↓

画像: golfdigest-play.jp
golfdigest-play.jp

This article is a sponsored article by
''.