万国のロータリークラブには、例会の度に指名された人がスピーカーとなって講演をする〝卓話〟というしきたりがある。テーマは自由、だが指名を拒絶することは許されない。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

ロータリークラブの「卓話」で選んだテーマは…

昭和33年8月下旬、山形ロータリークラブの月例会で指名されたのは、33歳の濱田耕一だった。沖正宗醸造の社長で、後に蔵王CC常任理事、蔵王ゴルフ専務となる人物だ。選んだテーマは「カントリークラブとゴルフ」だった。

吾妻高原ゴルフクラブの創立に関係したことはあるが、特別にゴルフの知識があったわけではない。当時の山形県下にはゴルファーはほとんどいない、「だからボロは出ないだろうと思った」と30年史で回顧している。

カントリークラブについては、英国の社交界や程ヶ谷CCを例に悪戦苦闘して持ち時間の30分が終った。

画像: 13番ホール/280㍎/パー4 樹木と砲台グリーンをガードするバンカーが正確なショットを求める。距離が短いため無理をせずにティショットのクラブ選択を適切にしたい

13番ホール/280㍎/パー4 樹木と砲台グリーンをガードするバンカーが正確なショットを求める。距離が短いため無理をせずにティショットのクラブ選択を適切にしたい

画像: 10番ホール/320㍎/パー4 やや左ドッグでフラット、フェアウェイも広く攻めやすい

10番ホール/320㍎/パー4 やや左ドッグでフラット、フェアウェイも広く攻めやすい

卓話が終わると事態は急展開「山形にもゴルフ場が必要だ!」

ところが事態は急転する。濱田の“卓話”が終わった途端、鈴木吉助議長が「濱田さんの主張通り、山形にもゴルフ場が必要だ」と発言。そこから蔵王カントリークラブが始まった。

鈴木は当時、山形交通社長、蔵王ゴルフ初代社長になる人物だ。鈴木は素早く動いた。県内の適地は、必要資金は、調達方法は…。事務所を山形交通本社内に置いた。濱田は自分で操縦桿を握って空から現在地を選び出した。

画像: 2番ホール/207㍎/パー3 50メートル打ち下ろしの、名物ホール。景観にのまれ左引っかけ、右押し出し注意

2番ホール/207㍎/パー3 50メートル打ち下ろしの、名物ホール。景観にのまれ左引っかけ、右押し出し注意

画像: 9番ホール/480㍎/パー5 途中には池、確実な3オンを狙うべきホール

9番ホール/480㍎/パー5 途中には池、確実な3オンを狙うべきホール

昭和34年6月24日、母体会社蔵王ゴルフ株式会社を設立。設計はブリヂストン社員の三好徳行、ハウス設計は山形県米沢出身の山下寿郎と決定。いざ用地買収というとき日本銀行の金融引き締めが始て、着工は昭和36 年5月まで延期。

画像: 14番ホール/417㍎/パー4 やや下りの長いホール。セカンドはライが悪くなるので、きちっと方向を定めたい

14番ホール/417㍎/パー4 やや下りの長いホール。セカンドはライが悪くなるので、きちっと方向を定めたい

画像: 18番ホール/405㍎/パー4 全ホールで最もタフなホール。距離不足だと川に落ちる可能性大

18番ホール/405㍎/パー4 全ホールで最もタフなホール。距離不足だと川に落ちる可能性大

第一期のインコースが開場したのは、昭和36 年9月。2年後の昭和38年10月6日、待望の第二期工事アウト9ホールが開場、18ホール・6357 ㍎・パー72が完成した。

コース内には多くの雑木林が残され、地形にはほとんど手を加えないクラシックな造りで、精密機械といわれた三好徳行の設計らしいポジションプレーの厳しい展開になっていた

蔵王カントリークラブ
山形県山形市蔵王上野2842-1
☎023-688-7777
開場日:昭和36年9月17日
コース:18H/6375Y/P72
設計:三好徳行
公式ホームページはこちら

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

取材・文/田野辺薫

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画像: golfdigest-play.jp
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