昭和28~29年頃、東京島墨田区太平の「瀧波硝子」本社工場の空地で、毛糸球を打ってゴルフ練習をしている人物がいた。瀧波硝子の社長、後に東日本硝子工業会会長となる瀧波栄一郎である。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

瀧波社長が毛糸球を打つ姿を見ていた総武信用組合理事の竹花福太郎。一人で練習しているなら、いっそ「会員制にしましょう」と提案した。

竹花は、一年後に日本での草分けとなるゴルフ会員権業「日本ゴルフ会」を創業する人物だった。瀧波、竹花ら4人が出資、空地には8打席の練習場が生まれ、会員制の練習場「墨田ゴルフ倶楽部」に変わる。下町の経営者を中心に会員が集まっていった。

瀧波が常連だった我孫子GCから、週に1回山本増二郎、林由郎らプロを呼びレッスンをしてもらい、月に1回、箱根、湯河原まで「月例競技」に出かけた。そのうちに「ホームコースを造ろう」という声が会員の間からわき上がった。

当時、千葉県には18ホールのコースは我孫子GC、鷹之台CC、千葉CC野田Gの3コースだけ。コース用地は千葉郡和泉町に落ちついた。現在の千葉市若葉区多部田町だ。

設計は川奈育ちの陳清水プロ

いくつかの反対運動もあったが、旧地主たちによる後援会がつくられるほど親密になった。コース着工は昭和34年3月。昭和33年12月、初めてコース予定地を見た設計担当の陳清水プロ。

「松林と杉木立の中に自然の線が横たわり、起伏に恵まれた地形に驚いた」と語った。

施工は、名コース川奈ホテル・富士コースを造った大倉組の後身・大成建設(同社自体ではゴルフ場造成第一号)、設計の陳清水プロも川奈育ちだったことから起用された。実は彼も初のコース設計だった。

クラブハウスも設計施工とも大成建設。学名「大屋根平型柱付曲面格子梁構造」という難しい形式の建造物が登場し、東洋一のクラブハウスと噂された。

昭和34年12月に9ホールオープン、翌35年4月、18ホール・7025㍎・パー72の京葉国際カントリー倶楽部が本開場する。

画像: 3番ホール/145㍎/パー3 打ち下ろし、手前はバンカー、距離感に注意

3番ホール/145㍎/パー3 打ち下ろし、手前はバンカー、距離感に注意

画像: 4番ホール/354㍎/パー4 グリーンに向かって真っすぐ上っていく。ペンクロスとタイイのベント2グリーン

4番ホール/354㍎/パー4 グリーンに向かって真っすぐ上っていく。ペンクロスとタイイのベント2グリーン

画像: 5番ホール/409㍎/パー4 距離のある右ドッグレッグ

5番ホール/409㍎/パー4 距離のある右ドッグレッグ

画像: 9番ホール/551㍎/パー5 右ドッグレッグでグリーン手前に池がある。きっちり3オンさせたいタフなホール

9番ホール/551㍎/パー5 右ドッグレッグでグリーン手前に池がある。きっちり3オンさせたいタフなホール

画像: 18番ホール/597㍎/パー5 距離のある最終ホール。フェアウェイにバンカーがなく飛ばし屋有利だが、曲げて林に打ち込むとやっかい

18番ホール/597㍎/パー5 距離のある最終ホール。フェアウェイにバンカーがなく飛ばし屋有利だが、曲げて林に打ち込むとやっかい

ともあれ京葉CC瀧波栄一郎が土地まとめから造成、資金面まで陣頭に立って、獅子奮迅して造り上げたコースである。

その歩みは、墨田ゴルフ倶楽部以来の庶民性が脈打つ「下町の名門倶楽部」である。平成12年、京葉カントリー倶楽部と改称された。

京葉カントリー倶楽部
千葉県千葉市若葉区多部田町805 ☎043-228-1531
開場日:昭和34年12月3日
コース:18H/6847Y/P72
設計:陳 清水
公式ホームページ

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

取材・文/田野辺薫

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