織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は天下統一に導いた「戦国の三英傑」、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は「維新の三傑」と呼ばれる。日本のゴルフコース設計の三傑となると、「東の井上誠一、西の上田治」、そして上田と同じ西日本で活躍した「佐藤儀一」(1899‐1967)と言っていいだろう。

1930年、C・H・アリソンの来日によって、英国式「戦略型」コース設計が日本に芽生えた。それ以前は、赤星四郎、六郎、大谷光明といった海外仕込みの名プレーヤーによる、自身たちの経験や見聞によってコースが造られていたが、アリソンの設計図や造成の技法を目の当たりにしたことで、井上誠一、上田治といったプレーヤーあがりではないゴルフコース設計家を誕生させることになった。

画像: 佐藤儀一 愛用のパイプは、片時も手放すことがなかったという

佐藤儀一
愛用のパイプは、片時も手放すことがなかったという

1950年代、日本に第一ゴルフブームが起こると、井上、上田は才能を発揮し、次々と名コースを誕生させていった。井上は自然の地形を生かし、上田は借景を取り入れたコース造りを得意とする一方で、佐藤儀一はプレーヤーとしてのキャリアをコース設計に取り入れた。

「飛ばすことは20パーセントなり」「フェアウェイ幅は45ヤードで十分」「ボールの落下地点があればいい」といった考えから生まれたコースは、小さな砲台グリーンと深いバンカーを巧みに配し、戦略性の高さを特徴とした。

ゴルフの腕はアメリカ仕込み

佐藤儀一は1899年、広島県福山市に生まれる。16歳でハワイに渡り、20歳の時にカルフォルニア大学美術科に留学。卒業後は貿易商社のサンフランシスコ支店に勤務。

現地法人「日本人クラブ」でプロゴルファー、ジミー・ダンカンと出会いゴルフを勧められた。ダンカンは佐藤に、「ゴルフは正確さが第一のゲーム。だから体の小さな日本人でも確実性を身に付ければパワー不足を補え、大男のアメリカ人と十分に太刀打ちできる」と教えた。

佐藤が最初に手にしたクラブはパターだった。「一尺のパット」(約30センチ)を確実に入れることから始め、二尺、三尺と距離を伸ばしていった。パットの次はアプローチ。1パット圏内に寄せる技を身につけ、最終的にはドライバーまで確実性を高めていった。

その結果、全米パブリック優勝、カルフォルニアゴールドメダリスト4回などの大小100のタイトルを手中に収め、1934年、35歳で帰国する。

帰国後すぐに、廣野ゴルフ倶楽部に入会。1935年から1951年までクラブ選手権を12連覇(1944年~48年は戦争の影響で実施されず)、日本アマは3連覇を含む4勝、関西アマ8勝、関西シニア3連覇といった圧倒的な戦績を残した。

画像: 当時の書物でも全日本アマチュアランキングのトップに佐藤の名が

当時の書物でも全日本アマチュアランキングのトップに佐藤の名が

画像: ゴルフの腕はアメリカ仕込み

そんな佐藤の元に、ゴルフコース設計の依頼がくる。1950年代に入ると、関西のゴルフ好きは川奈ホテルまで足を伸ばした。佐藤も米国から帰国した際、大倉家に招待をうけ川奈ホテルに1週間ほど滞在した。その頃の川奈の利用者は、半数が東京で、残りは関西のプレーヤーだと聞いた。

佐藤は思った、「なにも関西のプレーヤーが遠く伊豆半島まで出かけなくとも、関西の海岸にゴルフ場適地を探し、コースを造ればいい」

白浜ゴルフ倶楽部は、和歌山財界だけでなく大阪財界の応援もあり、1956年に開場した。設計は佐藤儀一と廣野ゴルフ倶楽部のグリーンキーパーだった松山圭司の共作。1番ホールは太平洋を眺望できる打ち下ろし。フェアウェイの先に海と空。川奈富士コース1番を連想させるものだった。

しかし、佐藤らしさの、狭いフェアウェイ、小さな砲台グリーン、深いバンカーといった特徴は影を潜め、5800ヤード、パー70の箱庭的エンジョイコースとなり、その後、松山圭司の手で、改造に次ぐ改造が行われ佐藤儀一のオリジナルデザインは8番ホールのみとなっている。

コース設計のソロビューは「片山津ゴルフ場」

設計家としてのソロデビューは、白浜GCの翌年に開場した片山津ゴルフ場である。現地を視察した佐藤は、「大阪市を中心に交通の便はすこぶるよく、宿泊施設は周辺に温泉が近くて申し分なく、加賀温泉郷の中心からコースまで僅かに5分という交通至便な地点であるばかりでなく、その眺望の雄大さ、地形は起伏が適当であり、樹木の状態もよく、なにひとつの欠点がなく満足して設計を引き受けた次第であります」と(片山津10年の歩みで)述べている。

画像: 片山津を実地調査する佐藤儀一

片山津を実地調査する佐藤儀一

片山津GCは現在、90ホールを有する日本海側随一のゴルフコンプレックスとなっている。佐藤儀一が設計したのは、白山コースと日本海コースの36ホール。1957年に白山コース9ホールが完成し、翌年、インコースが完成。6891ヤード、パー73が誕生する。

佐藤は設計にあたり、「自然の地形を十分に生かす」「樹木を十分に活用、雄大なホールでプレーを楽しめる」「チャンピオンコースでなければならない」「ビギナーにも十分満足でき親しめるもの」を基本構想とした。

松林の自然美と絶妙な起伏「片山津ゴルフ場」(1957年開場)

画像: 片山津ゴルフ場 白山コース6番ホール(318Y・P4)

片山津ゴルフ場 白山コース6番ホール(318Y・P4)

その後、片山津は1962年に9ホールを増設し27ホールに拡張。メインとなる18ホールは、従来の白山コースアウトと合わせ6866ヤード、パー72となった。さらに佐藤儀一の没年となる1967年には9ホールを増設し、総面積40余万坪、14000ヤード余の36ホールが完成した。

加賀市新保町の現地視察から11年、設計家の道を歩んだ同じだけの時間を片山津ゴルフ倶楽部に投じた。逝去する1カ月前、「私のレイアウトしたコースが片山津ゴルフ倶楽部各部門担当の方々によって完全に生かされた、その間のご苦労に対し深く敬意と感謝をささげて、設計者の言葉といたします」と病床で書き記した。

画像: 片山津ゴルフ場 白山6番ホールのガードバンカー

片山津ゴルフ場 白山6番ホールのガードバンカー

「アリソンの孫」とも呼ばれる片山津ゴルフ倶楽部白山コースでは、2000年に日本アマ、2010年に日本オープン、2015年に日本女子オープンを開催。佐藤儀一の真骨頂である、小さな砲台グリーンをガードする深いバンカーが選手たちを苦しめた。

米国でゴルフを学んだ佐藤は、日本の多くのゴルフ場が2グリーンを採用する中、「グリーンはひとつであるべき」と考え、コーライの1グリーンにこだわった。近年は芝の管理技術の進歩によりベントグリーンに改修するコースもあるが、改修にあたっては原設計を壊すことなく進められている。

代表作に城陽(1959年)、田辺(1960年)、郷里の松永(1961年)などがあるが、没後の1974年に18ホールが完成した広島GC鈴が峰コースは、アプローチとパットの名手、佐藤儀一の足跡を強く感じることができる。急峻地に造られたコースは狭く、起伏に富み、頭脳的プレーを要求。ただ飛ばすだけでない「ゴルフの奥深さ」を学ぶことができる。鈴ケ嶺コースで育った倉本昌弘、泰信(レックス倉本)はともに、佐藤儀一が4度制した日本アマチャンピオンにも輝いている。

佐藤設計の「東名古屋CC」だけが2グリーンのワケ
「佐藤儀一先生は、当初1グリーンの考えでしたが、東名古屋の来場者が増えるとグリーンの管理が難しく芝が痛む恐れがあると、ゴルフ場側がお願いをして2グリーンになったそうです」(メンバーの早川佳智プロのコメント)

田辺山城の丘陵地に手造りのアンジュレーション「田辺カントリー倶楽部」(1960年開場)

画像: 田辺カントリー倶楽部 13番ホール(465Y・P5)グリーン手前の池と深いバンカーが特徴

田辺カントリー倶楽部 13番ホール(465Y・P5)グリーン手前の池と深いバンカーが特徴

倉本昌弘を育てた広島県下で最古の難コース「広島ゴルフ倶楽部 鈴が峰コース」(1952年開場)

画像: 広島ゴルフ倶楽部 鈴が峰コース 7番ホール(390Y・P4) ダイナミックな傾斜の名物パー4

広島ゴルフ倶楽部 鈴が峰コース 7番ホール(390Y・P4) ダイナミックな傾斜の名物パー4

佐藤儀一設計コース会員権情報

コース名売り買い名変
芦屋※改造380310216
広島鈴が峰-1560
白浜201534.5
片山津24019050
城陽320270218.1
芦ノ湖-24募集
田辺-1200募集
茨木国際501586.4
四条畷-150募集
相生201440
徳島吉野川-1830
東海4540100
宝塚クラシック503050
玉野454050
松永17015040
嬉野252120
東名古屋8070200
和歌山-3030
志度151010
鳴門40155
下呂--停止中
大洲151020
長船15105
●伊勢湾※改造--閉鎖
●美作15550
相場・名変預託の単位は万円(会員権・名変料は税別) 
※●は佐藤儀一逝去後に開場
※名変料には預託金が含まれるゴルフ場があります
(全データはH31.3月現在)

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画像: ゴルフクラブ四条畷18番ホール(365Y・P4)1960年開場、大阪近郊の名コースのひとつ

ゴルフクラブ四条畷18番ホール(365Y・P4)1960年開場、大阪近郊の名コースのひとつ

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