日本のゴルフコース設計に多大なる影響をもたらしたチャールズ・ヒュー・アリソンは、帰国直前に、日本のゴルフの先駆者である大谷光明、赤星四郎、六郎に設計の基本を伝授した。「コース設計は作曲と同じである。序曲から始まって、次第に多くの楽器とテンポが加わり、感動の中にもスリルとサスペンスが漂って聴衆を飽きさせない。そして、最後に待ち受けるのが壮大なクライマックス。これらの条件が備わって、初めて名コースと呼ばれる。コース設計家の使命とは、与えられた地形から最大限の上品と優美を引き出すのが仕事である」(アリソン)

アリソンの来日で始まった「コース設計」の夜明け

日本のゴルフコース設計の夜明けは1930年、C・H・アリソンの来日によってもたらされた。それは日本初のゴルフコース、神戸ゴルフ倶楽部の誕生から27年後のことだった。

画像: 日本のコース造りに強烈な衝撃を与えたC・H・アリソン

日本のコース造りに強烈な衝撃を与えたC・H・アリソン

神戸GCを手掛けたアーサー・ヘスケル・グルームは1846年ロンドン生まれ。坂本龍馬と取引のあった長崎「グラバー商会」の共同経営者だった兄を頼って1868年21歳で来日した。長崎で働きはじめたグルームは、支店開設のため開港まもない神戸外国人居留地を訪れた。グラバー商会は「維新」の2年後に倒産してしまうが、グルームは横浜居留地に10年ほど移住した後、再び神戸に戻り、京都、奈良、静岡の銘茶の輸出とセイロン紅茶の輸入で成功を収めた。

画像: 来日時のグルーム

来日時のグルーム

グルームは六甲山の開拓にも力を注いだ。1万坪あまりの土地を借り、自身の別荘を建て、外国人にも分譲した。別荘は60戸、住人は100人以上を数え、一帯は「神戸外国人村」と呼ばれるようになった。

1898年の夏のこと、数名の英国人が集まっていた。その中のひとり、スコットランド生まれのアダムソンが、「久しくゴルフをやっていないな」と言い出すと、「日本にもゴルフコースがあれば……」、「香港ではゴルフが盛んだよ」、「9ホールでもいい、いや3ホールでも……」。英国人が3人集まればゴルフコースができると言われるお国柄。その言葉の通り、3年後の1901年に日本最初の4ホールが六甲山に登場した。

1903年5月24日、神戸ゴルフ倶楽部は9ホールとなり正式に開場。日本のゴルフの幕開けである。この時、会員数は122名、日本人は7人だった。

画像: 1903年当時のプレー写真(神戸ゴルフ倶楽部)

1903年当時のプレー写真(神戸ゴルフ倶楽部)

翌1904年には神戸GCの会員ウイリアム・ジョン・ロビンソンが「横屋ゴルフ・アソシエーション」を設立。六甲山頂にある神戸GCが冬季プレーできないことで、現在の六甲アイランド近くの神戸魚崎町横屋に6ホールが造られた。横屋GAは土地問題で1914年に鳴尾浜に移転、鳴尾ゴルフ・アソシエーションとなり、現在の鳴尾ゴルフ倶楽部へと続いていく。

横浜では1906年に「ニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)が創設され、根岸競馬場のトラックの中にゴルフ場が造られた。1913年には「雲仙ゴルフ場」が、スコットランド出身の商人トーマス・グラバーの息子、倉場富三郎によって造られた。しかし、この頃のゴルフは外国人が主体で、日本人は10%程度だった。

日本人による初のゴルフ場「東京ゴルフ倶楽部」の設立は1913年。コースは翌14年5月24日に6ホールが完成した。関西では1920年に舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部)が9ホールで開場し、この時、福井覚治がプロゴルファー第1号として誕生した。舞子CCは1932年に解散するが、会員の多くは廣野ゴルフ倶楽部に移籍した。

その頃、今風の言い方をすれば「海外組」も英国、米国でゴルフと出合っていた。西本願寺第21世法主の三男、大谷光明(1885-1961)は1907年から3年間、英国に留学しゴルフにのめり込んだ。
その大谷とともに日本のゴルフ発展に貢献した赤星四郎(1895-1971)、六郎(1898-1944)の兄弟も米国でゴルフに触れていた。

薩摩藩郷士出身「赤星家」は六男七女

赤星兄弟の父は、鹿児島薩摩藩旧郷士出身の実業家、赤星弥之助。四郎は六男七女の四男、六郎は六男として生まれた。父弥之助は20代半ばに上京し、奇遇を経て実業界入りを果たす。英国アームストロング社の大砲を軍艦に搭載する技術の特許を得て明治の大富豪となった。弥之助は兄弟4人(鉄馬、喜介、四郎、六郎)を米国に留学させ、「一流人と対等に交友せよ。何かひとつ文化やスポーツを身につけてこい」と教えた。

長男、鉄馬は、神戸六甲山に4ホールできた1901年に米国に旅立った。鉄馬はブラックバス・フィッシングに夢中になり、1910年に帰国。四郎はローレンスビル高校からペンシルベニア州立大学へ。アメリカンフットボールの選手となり、1921年に帰国。ゴルフを本格的に始めたのは帰国後のこと、その5年後に日本アマを制している。六郎はプリンストン大学でゴルフを始め、1924年パインハーストスプリングトーナメントの優勝を引っ下げて同年、24歳で帰国した。

赤星四郎

画像: 右端が赤星四郎。身長は180㌢、飛ばし屋でありながら小技にも長けたゴルファーだった。米国のペンシルベニア州立大から帰国後にゴルフを覚えた。中央は次女の光子さん

右端が赤星四郎。身長は180㌢、飛ばし屋でありながら小技にも長けたゴルファーだった。米国のペンシルベニア州立大から帰国後にゴルフを覚えた。中央は次女の光子さん

画像: 野球のベーブ・ルース(左2番目)と赤星四郎(右端)。四郎が設計した藤澤CCにて

野球のベーブ・ルース(左2番目)と赤星四郎(右端)。四郎が設計した藤澤CCにて

赤星六郎

画像: 赤星六郎(左端)。米国プリンストン大学でゴルフを始めて24歳で帰国し、日本に本物のゴルフを根づかせようと奔走した

赤星六郎(左端)。米国プリンストン大学でゴルフを始めて24歳で帰国し、日本に本物のゴルフを根づかせようと奔走した

画像: 赤星六郎をゴルフの先生と呼んだ安田幸吉プロ。四郎、六郎ともにナショナルハンディ導入時トップのHC2 (PHOTO/JGA70年史)

赤星六郎をゴルフの先生と呼んだ安田幸吉プロ。四郎、六郎ともにナショナルハンディ導入時トップのHC2
(PHOTO/JGA70年史)

長男鉄馬は東京ゴルフ倶楽部(駒沢)の創立メンバーのひとり。四郎、六郎も東京GCに入会した。大谷光明は、駒沢コースのハウスの前の松の木の下にひとり立っていた。メンバーの高木喜寛(医学者であり、日本ラグビー協会初代会長)に「どなたですか?」と声をかけられると、「京都からきた、大谷です」と答え、皆に紹介してもらい駒沢のメンバーになった。

大谷光明

画像: 中央が大谷光明。1907年から3年間英国に滞在しゴルフを覚えた。後列左は小寺酉二

中央が大谷光明。1907年から3年間英国に滞在しゴルフを覚えた。後列左は小寺酉二

画像: 大谷は赤星六郎から米国仕込みの技術を学んだ

大谷は赤星六郎から米国仕込みの技術を学んだ

東京の駒沢で生まれた「東京倶楽部」

東京ゴルフ倶楽部は、井上準之助(日本銀行総裁、大蔵大臣)が、1908年ニューヨークでゴルフを覚え、1912年に帰国。横浜正金銀行頭取となった井上が、「東京にもゴルフコースを造ろう」と動き出す。横浜根岸のゴルフ場NRCGAへ足を運び、井上と同郷の荒川新十郎(横浜の生糸商)の紹介で社交団体「東京倶楽部」の会員との交流が始まった。出資団体である「東京ゴルフ会」を立ち上げ会員を募集、東京倶楽部のメンバーを中心に「47名」が名を連ねた。

画像: 空から見た東京GC駒沢コース

空から見た東京GC駒沢コース

画像: 東京GC駒沢コースのスタートホール風景

東京GC駒沢コースのスタートホール風景

しかし、東京GCは開場から4年目には地代値上げに悩まされ、移転先を探し始めた。さらに、開場翌年に9ホールになったものの、やはり18ホールのゴルフ場が欲しくなる。駒沢コースのレイアウトは、根岸のNRCGAの会員でゴルフ場の知識のあったブレディとコルチェスターに依頼したが、「今度はもう少し専門的にレイアウトしたらどうか」という話が起こり、米国のプロゴルファー、W・フォバーグに依頼することになった。

横浜郊外に誕生した「程ヶ谷ゴルフ倶楽部」

横浜市郊外の保土ヶ谷常盤台にまとまった土地を見つけると、1922年に「程ヶ谷ゴルフ倶楽部」を創立。副会長は東京ゴルフ倶楽部の創設者、井上準之助、キャプテンは森村開作(森村財閥を創設した6代目森村市左衛門の次男)。横浜に船が着くとフォバーグは建設予定地を視察。大谷光明らも一緒に藪の中を見て回った。フォバーグは「3~4日待ってくれ」といい、ティとグリーン位置の目印となる旗を立てて回った「(高台に向かって)球が届くか、届かぬか」などの議論はあったが、
「フォバーグが『届く』というのだからこれで行こう」。1923年、念願だった18ホール(6109ヤード、パー69)のチャンピオンコースが誕生し、東京GCから独立した形で運営された。

画像: 開場当時の程ヶ谷GC。池が美しい6番ホール、パー3

開場当時の程ヶ谷GC。池が美しい6番ホール、パー3

その後、東京ゴルフ倶楽部は会員が増加。地代の問題を抱えたまま18ホールの本格的ゴルフコースに拡張することとなり、1926年6160ヤード・パー72のコースが完成する。しかし、関東大震災以降、世田谷、杉並は急激に宅地開発が進み地代がさらに高騰する。倶楽部運営に重くのしかかり、移転を考えざるを得なくなった。

画像: 現在の駒沢オリンピック公園付近と、駒沢コース18ホールとの位置関係

現在の駒沢オリンピック公園付近と、駒沢コース18ホールとの位置関係

その頃、もうひとつの流れがゴルフ界に現れる。ゴルフの大衆化を謳った「武蔵野カンツリー倶楽部」である。関東大震災の翌年、1924年の東京日々新聞の社会面にゴルフをやっている絵が掲載された。その記事には、「ゴルフをやりたいものは戸塚町諏訪川崎方ゴルフ倶楽部へ来れば誰でも歓迎する」とあった。そこは戸山ヶ原の練兵場に6つ穴を掘ったゴルフ場だった。

ゴルフ大衆化の足掛かり「武蔵野カンツリー倶楽部」

「3人集まればゴルフ場ができる……」。武蔵野カンツリー倶楽部も神戸GC同様に川崎保、明石雷一、東京日々新聞の京田の3人が、「ゴルフリンクスを造ろうじゃないか」となり土地を探しはじめた。場所はかつて多摩テック(2009年閉鎖)のあった付近に造られた。ところが、武蔵野CC平山コースは、9ホールが完成すると移転問題が起こり、千葉県松戸の「六実」に新コース建設を決めた。設計は、大谷光明。海外のリンクスを回ってきた経験が買われてのことだった。「あの大谷が設計したのだから相当なものができるだろう」と六実コースは話題となり、入会希望者が殺到。1927年9月に9ホールが完成した。武蔵野カンツリー倶楽部はその後、赤星六郎設計の「藤ヶ谷コース」を増設し、民衆的なゴルフコースが出来始めるきっかけを作った。

画像: 武蔵野CCの六実コースと藤ヶ谷コースは、それぞれ大谷光明と赤星六郎の設計デビュー作でもあった(PHOTO/JGA70年史)

武蔵野CCの六実コースと藤ヶ谷コースは、それぞれ大谷光明と赤星六郎の設計デビュー作でもあった(PHOTO/JGA70年史)

日本人設計の歴史(作者がわかる範囲)を見ると、1926年(昭和元年)に福井覚治(プロ1号)が宝塚GCを設計。1927年に武蔵野CC平山コースでゴルフを始めた君島一郎が日本銀行函館支店時代に函館競馬場内に6コースを造り函館GCを設立し、同じ北海道小樽に三菱鉱業小樽支店長の佐藤棟造が9ホール(現在の小樽CC旧コース)を完成させた。

画像: 現在の小樽CC旧コース

現在の小樽CC旧コース

上流階級のものだったゴルフの民衆化に貢献した武蔵野カントリー倶楽部は、平山コースが六実コースへの移転にともない1926年に閉鎖。その2年後、多摩カントリー倶楽部となり復活するが、時局悪化により1938年再び閉鎖。六実コースと藤ヶ谷コースも1944年に閉鎖となる。戦後多くのコースが復活を遂げるが武蔵野CCは消滅。大谷光明、赤星六郎、両氏のデビュー作は伝説となった。東洋一の規模を誇った藤ヶ谷コースは軍に接収され1945年に藤ヶ谷陸軍飛行場となり、終戦とともにアメリカ軍の白井基地となり、その後、下総航空基地となって現在に至っている。

兄・四郎は藤田欽也とともに「霞ヶ関CC東コース」を造る

武蔵野CC六実コースをきっかけに、大谷光明、赤星四郎、六郎にゴルフコース設計の依頼が増えだしたのもこの頃である。大谷光明は、川奈ホテル大島コース(1928年)、名古屋ゴルフ倶楽部(1929年)を設計。赤星六郎は川奈ホテルの新コース(富士コース)を6~7ホール仕上げていた。兄四郎は、米国帰りの藤田欽哉とともに、東京ゴルフ倶楽部が誘致を断ったことで生まれた、霞ヶ関カンツリー倶楽部(東コース)を1929年に完成させた。

東京ゴルフ倶楽部は移転先を埼玉県膝折村(朝霞コース)に決定する。設計家は世界的に名の通ったハリー・コルトに依頼することにした。しかし、コルトは60歳、「日本までの船旅は長すぎる」という理由で断り、代案として助手のアリソンの派遣を申し出た。

アリソンの接待役、四郎と大谷

1930年12月、船に乗ってやってきたアリソンは、長旅の疲れも見せず到着の翌日から膝折村に向かった。アリソンの仕事ぶりは、これまでのコース設計とはまるで違った。程ヶ谷GCでフォバーグがやったようなティとグリーン位置に見当の旗を置く作業ではなく、測量器や分度器、方眼紙などを用いる本格的なものだった。接待役の大谷光明と赤星四郎はアリソンから片時も離れず仕事のやり方を学んだ。

画像: 東京GC朝霞コース(14番ホール)。大小のマウンド、深いバンカーが見て取れる

東京GC朝霞コース(14番ホール)。大小のマウンド、深いバンカーが見て取れる

画像: 東京GC朝霞コースの18Hレイアウト

東京GC朝霞コースの18Hレイアウト

アリソンの緻密な設計を目の当たりにした四郎

測量を終えたアリソンは帝国ホテルに10日間こもり、「朝霞コース」の設計図を描き上げた。その出来のすばらしさを聞いた関西の3倶楽部(廣野、茨木、鳴尾)はアリソンに仕事を依頼。アリソンも京都で名庭園の散策ができると考え承諾した。

関西に向かうことになったアリソンは、赤星六郎が川奈ホテルに新コースを計画中であることを聞き、途中下車することにした。大倉喜七郎はアリソンに設計を変更した。太平洋を一望する絶景に驚かされたアリソンは、3日間仕事が手につかないほど心が躍った。そしてアリソンの描き下ろした新ルートプランは、赤星六郎のものとはだいぶ違い、富士コースを代表する15番パー5は、アリソンが川奈に立ち寄らなければ誕生しなかった。

画像: 川奈ホテルGC15番ホール(480ヤード・パー5)

川奈ホテルGC15番ホール(480ヤード・パー5)

2ヵ月間で「東京GC朝霞C」「川奈ホテルGC富士C」「廣野GC」設計、「霞ヶ関CC東C」「鳴尾GC」「宝塚GC」改造プランの置き土産

アリソンの滞在はたった2カ月。その間に東京GC朝霞コース、川奈ホテル富士コース、廣野ゴルフ倶楽部を設計し、関東では霞ヶ関東コースの全ホール、鳴尾GC16ホール、宝塚GCの改造案を描き上げ、日本のコース設計に「アリソン・ショック」を起こし帰国した。

画像: アリソンが描いた廣野GC1番ホールグリーン配置(左)、13番ホール(右上)、クラブハウスから見た18グリーン(右下)

アリソンが描いた廣野GC1番ホールグリーン配置(左)、13番ホール(右上)、クラブハウスから見た18グリーン(右下)

画像: 廣野GC7番ホール(190ヤード・パー3)※2019年現在、廣野GCは全面改修中(2019年秋に再開予定)

廣野GC7番ホール(190ヤード・パー3)※2019年現在、廣野GCは全面改修中(2019年秋に再開予定)

【神戸GC誕生からC・H・アリソン来日までの流れ】

1901年 神戸GC4ホール(A・H・グルーム)
1903年 神戸ゴルフ倶楽部正式開場
1904年 神戸GC18ホールに増設
1904年 横屋ゴルフ・アソシエーション(W・B・ロビンソン)
1906年 横浜根岸にニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・
アソシエーション
1913年 東京ゴルフ倶楽部設立
1913年 雲仙ゴルフ場(B・オーレス)
1914年 東京GC(G・G・ブレディ、T・E・コルチェスター)
1914年 横屋GA閉鎖。鳴尾ゴルフ・アソシエーション設立
1917年 仙石GC(T・E・コレチェスター)
1920年 軽井沢GC(トム・ニコル)
1920年 鳴尾GA閉鎖。鳴尾ゴルフ倶楽部設立
1920年 舞子CC
1922年 程ヶ谷CC(ウォルター・フォバーグ)
1922年 横屋GA跡地に甲南ゴルフ倶楽部
1923年 二葉GC(広島GC)
1924年 武蔵野CC平山コース
1924年 神戸、根岸、東京、鳴尾、舞子、程ヶ谷、甲南の「東西7倶楽部
」によってJGA設立
1925年 茨木CC(デイビッド・フット)
1926年 東京GC駒沢コース18ホール増設
1926年 京都CC
1926年 宝塚GC(福井覚治)
1926年 武蔵野CC六実コースへ移転
1926年 福岡GC大保コース(九州2番目)※古賀GLの前身
1927年 第1回日本オープン開催(程ヶ谷CC)
1927年 函館GC(平野信男)
1928年 長崎GC
1928年 小樽GC(佐藤棟造)
1928年 川奈ホテル大島コース(大谷光明)
1929年 柏競馬場内にゴルフコース完成
1929年 名古屋GC(大谷光明)
1929年 霞ヶ関CC(赤星四郎、藤田欽哉)
1929年 武蔵野CC藤ヶ谷コース(赤星六郎)
1930年 (現・室蘭GC)イタンキコース(水谷叔彦)
1930年 岡山霞橋GC(J・E・クレーン)
1930年 12月C・H・アリソン来日(2カ月間滞在。神戸港から帰国)

アリソンが設計図を描き残した置土産

1931年 霞ヶ関カンツリー倶楽部東コース改造
1931年 鳴尾ゴルフ倶楽部16ホール改造
1932年 東京ゴルフ倶楽部朝霞コース開場
1932年 廣野ゴルフ倶楽部開場
1936年 川奈ホテル富士コース開場

アリソン設計に薫陶を受けた赤星四郎、全20コースの会員権情報

コース名売り買い名変
霞ヶ関・東譲不
仙塩停止中
富士屋ホテル仙石パブ
函館GC湯の川25710
熱海300募集
箱根7050※1050
富士5170
霞ヶ浦国際停止中
桜ヶ丘850750※600
東京国際160140100
伊豆にらやま604010
本厚木640530200
葉山国際10070※331.5
芥屋260相談50
阿蘇201015
程ヶ谷新コース譲不
御殿場10515
上総富士10520
相場・名変預託の単位は万円(会員権・名変料は税別) 
※名変料には預託金が含まれるゴルフ場があります
(全データはH31.4月現在)
画像: C・H・アリソンが手がけたコースのひとつ、鳴尾GC

C・H・アリソンが手がけたコースのひとつ、鳴尾GC

画像: 左から赤星六郎、B・メルホーンプロ、B・クルクシャンクプロ、赤星四郎。1930年(昭和5年)、東京GC駒沢コースにて

左から赤星六郎、B・メルホーンプロ、B・クルクシャンクプロ、赤星四郎。1930年(昭和5年)、東京GC駒沢コースにて

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