霞ヶ関カンツリー倶楽部にて「第五回カナダカップ」開催決定
昭和32年。戦後、急速な復興を遂げた日本のゴルフ界は、創始以来最初で最大の記念すべき大会を迎えることとなる。ゴルフの国際的祭典、のちのワールドカップとなる「第五回カナダ・カップ」が日本の霞ヶ関カンツリー倶楽部東コースで開催されることが決まったのだ。
日本代表として選出されたのが、公式主要競技で優秀な成績を残した中村寅吉と小野光一の2名。当時のプロゴルファーが皆、選出されるために熾烈な争いを繰り広げた末の結果だったことは言うまでもない。
この国際競技は、ニューヨークに本部をおく、当時のインターナショナルゴルフアソシエーション(国際ゴルフ協会)が主催するもので、1953年ジョン・ジェー・ホプキンス氏が創始し、最初はとくにアメリカとカナダの友好関係を良好にする目的のために「カナダ・カップ」と名付けたといわれている。
競技の特色は、参加国それぞれ2名の代表選手をチームとして、その総計スコアを持って優勝を争うものだが、そのほかに個人優勝者には同じくホプキンス氏寄贈のトロフィが与えられる。
日本開催招致に尽力を注いだのは、日本ゴルフ協会と読売新聞社である。共催が決まると、競技コースを選定にきた大会準備委員長のフレッド・コーコラン氏は我孫子ゴルフ倶楽部や程ヶ谷カントリー倶楽部、霞ヶ関カンツリー倶楽部などを見て回り、当時いちばん距離の長かった霞ヶ関カンツリー倶楽部に決めた。
開催は10月で、十分な準備期間はなかったものの、コース設計家の井上誠一氏を中心に、クロスバンカーの位置を移したり、ティグラウンドの整備などを行った。また、バンカーは茨城産の白砂に入れ替えたりしたと言われる。
そして、行われた第五回カナダ・カップ。アメリカ代表には、サム・スニード、南アフリカ代表には若かりし頃のゲーリー・プレーヤ―なども顔を揃えた。
高麗芝のグリーンに手を焼いた外国勢
“勝敗のカギはパッティングにあり”と言われていた。当時の外国人選手たちは高麗芝のグリーンを体験したことがないどころか、日本にゴルフ場があることさえ、驚いていたからだ。
のちに中村寅吉はこう話している。
「外国人選手なんか、1度1メートルくらいのパットを外すと、次から怖くて打てなくなる。目がわからないんだな。なんでこんなに切れるんだって、目を向いていたよ」(中村)
大会第1日目、9時39分にトップを切ってティオフした日本チーム。当時の新聞によると、「中村の第1打は緊張したのか左のバンカーに。続く、小野のティショットは右ラフに言った」とある。
少し出遅れた日本はアメリカに5打差をつけられて2位、個人成績ではアメリカのサム・スニードが67に対し、中村寅吉は68で2位となった。
続く2日目。10番ホールで中村はバンカーから直接カップインさせバーディ発進。あがってみると中村68で小野70。サム・スニードは74も叩き、アメリア281で日本が279と逆転する。
そして、3日目。アメリカの総合スコア142に対し、日本は中村67、小野68の135をたたき出し、アメリカを一気に引き離した。個人戦でも中村は以前トップを独走していた。
日本優勝の公算が濃厚となった最終日、プレッシャーからか固くなってしまった2人は、中村71、小野72という成績。中村はバックナインに入ると、“このままでは負ける。ダメで元々だ”と思い直したことで、肩の力がスッと抜けたという。
体も動くようになり、2位のアメリカに9打差をつけて見事優勝を果たした。個人戦では中村は2位のサム・スニード、ゲーリー・プレーヤーに、7打差をつけて優勝した。
優勝パレードの模様
この試合の模様は、日本で初めてテレビ中継され、そこで日本チームが優勝! テレビを通じてゴルフというスポーツが一気に全国区となる。
4日間のギャラリー数は1万7千人を超え、当時あまり普及していなかったはずの車が5000台に達し、駐車場は満車。臨時駐車場を用意するほどの大フィーバーとなった。
第五回カナダカップ成績
ゴルフが一般大衆化、‟ゴルフフィーバー”到来
昭和30年代後半、高度経済成長が進むと同時に、カナダカップでの日本人選手の活躍で巻き起こった一般大衆のゴルフ熱が、ゴルフフィーバーとなって現れた。
霞ヶ関カンツリー倶楽部の資料によると、昭和35年には年間の来場者数が7万2600万人、うち、ビジターは3万5400人。ゴルフの“黄金期”といわれている。
そして、今から2年後の2020年、日本ゴルフ発展の原点である霞ヶ関カンツリー倶楽部が、東京オリンピック・パラリンピックの舞台になる。
日本人選手が金メダルでも取ろうものなら、カナダカップのような大フィーバーとなることは間違いない。ゴルフフィーバー再来に向け、代表選手の頑張りに期待したい。
中村寅吉のドライバーショット(1977年)
小野光一のインパクト
昭和32年(1957年)は、日本が復興から発展へと舵を切り、国民生活が急速に発展した時代。そのときの社会は……
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