【解説/江連忠プロ】
東京都出身。高校卒業後、米国に渡り、ジム・マクリーンの元で最新のティーチングメソッドを学ぶ。その後、片山晋呉、諸見里しのぶ、上田桃子ら、多くのプロを育てる。日本におけるプロコーチの草分け的存在
近代スウィングを語る上で、まず最初に見てもらいたいのがジャック・二クラス。ツアー73勝、うちメジャー18勝という金字塔を打ち立てた、名プレーヤーだ。ここからは、江連プロの解説で、現代に至るまでのスウィングの歴史を見ていこう。
【ジャック・二クラス】時代の象徴「大きなフットワーク」
いつの時代もスーパースターが時代のスウィングをリードします。近代のゴルフスウィングを語るとき、ジャック・二クラスを欠かすことはできません。(江連)
プロからアマチュアまで、世界中のプレーヤーが二クラスに憧れ、その技術を参考にしました。
二クラスといえば、フォワードプレス、チンバック、ヒールアップ、アップライトスウィング、フライングエルボー、ハイフィニッシュなど、その特徴を表す言葉が数多く思い浮かびます。それは取りも直さず、二クラスが多くのプレーヤーに影響を与えた証拠と言えるでしょう。
なかでも、この時代を色濃く映しだしているのが、大きなフットワークです。
パーシモンヘッドにスチールシャフト。長さも43~43.5インチと短く、クラブにエネルギーがなかったこの時代において、球を上げて(キャリーを稼いで)飛距離を出すためには、脚の力を相当に使う必要がありました。もし、これがニック・ファルドのような静かなフットワークだったら、飛距離はかなり落ちていたでしょう。
実際、この時代には、バックスウィングで左ひざがボールの内側まで動くのが基本でした。ただ二クラスの非凡なところは、これだけ大きく動かしても、重心が流れたり、浮いたりしないことです。左ひざが内側に入りつつも、下にエネルギーを使い、低重心のままスウィングする。それが平らで長いインパクトゾーンを作っていたのです。
クラブが軽く、長くなり、クラブ自体のエネルギーが大きくなった現在、ここまで大きなフットワークは必要なくなりました。しかし、脚で打つということが、リズム、パワーを手に入れるための重要なキーワードであることは今も変わらない真理と言えるでしょう。
二クラスは最初ヒールだった!?
初優勝を飾った1962年の全米オープンで当時人気No1のアーノルド・パーマー(右)を破った二クラスは、見た目の影響もあり、しばらくはヒール扱い。その後ダイエットに励み、イメチェンに成功。実績も積み人気は上昇。「ゴールデンベア」「帝王」の愛称で呼ばれるようになった。
【グレッグ・ノーマン】飛距離と正確性で他を圧倒した「剛のスウィング」
二クラスが円熟期を迎えた1970年代半ばに誕生したスターがグレッグ・ノーマンです。
二クラスの影響を色濃く受けて育ち、アップライト軌道、逆C字型のハイフィニッシュなど二クラスの雰囲気が随所に感じられます。
ノーマンは当時、世界一ドライバーの上手い選手でした。その飛距離と正確性で他を圧倒したのです。ただ、ノーマンの技術には道具、とくにボールが追いついていなかったような気がします。バックスピンが多すぎたために、グリーンをとらえた球がこぼれ落ちる。ピンそばに落ちた球がバンカーにつかまるなど、スピンでピンチに陥り、試合を落とすケースが何度もあったからです。
【セベ・バレステロス】多彩なアイアンショットで魅了「柔のスウィング」
二クラス後、剛のスーパースターがノーマンだとすれば、柔のスターはセベ・バレステロスでしょう。
手を長く柔らかく使うスウィング、変幻自在のボールコントロール、絶体絶命のピンチからもバーディを奪い、常に「何をするんだろう」という期待を感じさせました。
決して再現性の高いスウィングではありませんでしたが、そんな価値観では語り尽くせない魅力がセベにはありました。
そのスウィングを形作ったのは、やはり幼少期の経験でしょう。セベは子供の頃に3番アイアン1本でゴルフを覚えました。パワーのない子供が3番アイアンで球を上げるためには、スライスを打つ、もしくは軸を右に傾けて打ち出しを高くする必要があります。そして飛距離を出すためにフックを覚える。その経験がスウィングとして昇華したのです。
セベは、ヨーロッパのゴルフ界を明らかに盛り上げました。当時、ヨーロッパのほぼすべてのゴルファーがセベを目標にしていました。
【スウィング大進化論②】AON 日本ツアーを支えた3つの個性。随時配信予定です