ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
大野ヶ原は、江戸時代に会津松平藩の演習地だった。大野ヶ原の東南端、小高い御殿山に藩公が陣取り、草原いっぱいに旗指物を押し立てた藩士たちが勇壮な巻狩りを展開した。幕末には白虎隊が奮戦した古戦場にもなった。
明治41年、有栖川宮が猪苗代湖畔の長浜に、八角塔屋つきの西洋建築の別邸を建て、後にそれは高松宮別邸となった。昭和天皇は皇太子時代に6回会津を訪れ、そこに宿泊されている。
皇太子時代、草原を刈払って造った鳥狩原のゴルフ場でプレー
御成婚間もない大正13年8月には、大野ヶ原の草原を刈払いして造った鳥狩原のゴルフ場で、妃殿下と一緒にゴルフを楽しまれた。耶麻、北会津、河沼の三郡から選ばれた14人の少年キャディが奉仕したといわれている。
「あの時の鳥狩原のゴルフ場は、現在の会津磐梯カントリークラブでいうと1番、2番、3番、4番ホールにかけての場所と思われる」と関係者は語っている。ほとんど平坦なフェアウェイ、ラフと小川と池のある穏やかな土地だ。
コース設計は川奈ホテルゴルフコースの「陳清水」
元県知事で地元の代議士、大竹作摩が「福島にも本格的なゴルフ場が必要だ」と動き出した。大竹の脳裏には、昭和天皇がゴルフを楽しんだ「大野ヶ原(鳥狩原)」があった。
当時、福島県下にはスキー場を利用した吾妻山麓の吾妻高原GC、平の水石山GC、いずれも9ホールのゴルフ場しかなかった。
昭和36年6月、会津磐梯カントリークラブをようやく設立。静岡県の川奈ホテルゴルフコース育ちの台湾プロ、陳清水による設計。18ホール・6750㍎・パー72が正式開場したのは設立から1年3か月後、昭和37年9月だった。
磐梯山から猪苗代湖へ流れるゆるやかな等高線上に広がっているが、アウトはフラットで距離が長く3519㍎、インは打ち下ろしなど高低を絡めた3237㍎で、短めだが変化のあるホールが続く。
会津磐梯カントリークラブ
福島県会津若松市河東町八田字大野原62 ☎0242-94-2011
開場日:昭和37年9月15 日
コース:18H/6756Y/P72
設計:陳 清水
公式ホームページ
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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