ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
日本が高度経済成長を迎えはじめた昭和34年、時代は変わり、伝来のやりかたでは土地が荒れると「新しい利用法はないか」となった。静岡の地元有力者から「ゴルフ場に最適の土地がある。どうだ」と、逓信官僚(後に次官)大和田悌二に話が持ち込まれた。
大和田は、郷里大分県の後輩で、高架線工事で逓信省に出入りしていた佐藤建設工業社長・佐藤泰助に相談する。佐藤はカナダ杯の優勝で人気絶頂を迎えていた中村寅吉プロとも親しかった。
コース設計は中村寅吉。グリーンの難度にこだわった
昭和35年7月の快晴正午、大和田、佐藤、中村プロの3人は大御神の丘に立った。
足下には約50万坪の、鬱蒼たるジャングルの盆地が広がっていた。道もなく、陽の射す隙間もない密林。しかし緩やかな斜面は、山深く調べた中村プロ、寅さんの心を捕らえたようだ。
「ここなら思う存分の設計ができる。理想のコースが造れる」と胸を張った。
昭和35年8月、株式会社富士小山ゴルフクラブ(資本金5000万円、社長大和田悌二)を設立。コース設計は中村寅吉。
設計は、東京の砧ゴルフ場で一緒の宮澤長平が手助けした。昭和37年4月1日、本オープン。
コースの評判は80点以上。だが「グリーンが難し過ぎる」と苦情が揃った。そうなるには理由があった。大和田は日頃から、ゴルフは楽しむもの、池はなるべく横に遠ざけ、バンカーは一発で出るようにと注文した。
昭和57年関東オープン、優勝したジャンボ尾崎のスコアは2オーバー
対して設計の寅さんは、それでは易しすぎる、とグリーンを厳しくして難易度アップを図った。
昭和38年2月、大和田は「御膳立はできた、経営はよろしく」と、大分県人会の後輩小田急電鉄総帥・安藤楢六に社長、理事長の職を託した。
昭和57年関東オープン開催。ジャンボ尾崎の優勝スコアは2オーバー。「グリーンは難しすぎたかな」と寅さんが呟いたという話がある。
富士小山ゴルフクラブ
静岡県駿東郡小山町字大御神894‐1 ☎0550-78-0111
開場日:昭和37年4月1日
コース:18H/6979Y/P72
設計:中村寅吉
公式ホームページ
ゴルフ会員権に関するお問合せ、ご相談は、会員権取引業57年、10万件以上の成約をお手伝いしてきたゴルフダイジェスト社会員権サービス部にお任せください。
富士小山GCのゴルフ場身体検査はこちら
「ゴルフコースことはじめ」バックナンバーはこちら↓
「会員権相場はウソつかない」バックナンバーはこちら↓