井上誠一
1908年、東京生まれ。英国人設計家C・H・アリソンが東京ゴルフ倶楽部朝霞コース設計で来日した際、現場で影響を受けコース設計の道へ入る。その後、50年以上にわたって、国内44コース、海外2コースを設計。168センチで細身。自身のスウィングにも美しさを求めHC7の腕前までいく。1981年逝去
なぜ井上誠一が設計したコースは、時代を超えてゴルファーを魅了しつづけるのか。
「コースとは"楽しさ"と"美しさ"の結晶」
後年、井上誠一は「私の先生はアリソンかな」と語った。彼の設計には、英国人設計家チャールズ・H・アリソンの影響が随所にみられる。戦禍とともに消えた「東京ゴルフ倶楽部朝霞コース」設計のために来日したアリソンを見てコース設計という仕事を知り、その後、川奈で病気療養中だった22歳の時には「川奈ホテル 富士コース」の造成アドバイスに来ていたアリソンに会いに行き影響を受ける、彼の仕事ぶりを見て、ゴルフ場設計を学び始めた。
実際、彼の描いた設計図は、アリソンのスタイルに似ていた。アリソンが設計した「東京ゴルフ倶楽部朝霞コース」を熱心に研究していたという。
アリソンの師匠は、製図版を使った最初のコース設計者と言われ、「パー3のミケランジェロ」の異名をとったハリー・コルト。歳はアリソンよりも13歳上。コルト、アリソンのスコットランドの設計流儀を受け、それを国内のゴルフ場設計に取り入れた日本人最初の設計家でもあった。
ただし、井上を井上たらしめたのは、彼らの模倣にとどまらなかったこと。スコットランドのリンクスを学びながらも、日本の地形や気候、景観に合ったコースを生み出すにいたった、自由な発想と美意識を持ち合わせていたこと。
上手なプレーヤーには手強く、そうでないプレーヤーには楽しく
ゴルフ史家の大塚和徳氏に井上設計コースの特徴を聞いてみた。
「ゲーム性という側面から言うと、(井上誠一設計の)18ホールを回る際、あらゆる種類のショットが要求されます。それは、プレーヤーが14本すべてのクラブを使うよう設計されているためです。ハザードの設置方法などプレーヤーを飽きさせない豊かな戦略性があります」(大塚氏)
豊かな戦力性という点で、井上はコース敷地を効率良く使える「行って戻って」のすだれ状のホール配置を嫌った。太陽や光、風の向きが単調になり、プレーヤーを飽きやすくするからだ。
井上誠一のキャリアは「3つの色」にわけられる
型にはまった設計を嫌い、「つねに自由な考え方を持つべきだ」と語った井上誠一。生涯で45のコース(現存するのは41コース)を設計したが、自身の経験や造成技術の革新とともに、時代ごとに変化がある。
重機がない時代、元の地形を最大活用することで、色褪せないコースを造った「傑作期」、世界中の名コースを行脚した時期から始まる「世界基準期」、土地の文化を取り入れコースデザインを芸術としてとらえた「独創期」の3つに大別してみた。
【傑作期】井上誠一の原点がここに。コースが手造りだった1940年代
コースを鋤や鍬を使って人力で造っていった1930年代から1940年代。それぞれの土地の起伏はそのまま生かされた。微妙なアンジュレーションが広がるコースは、60年近くの歳月が過ぎた今も、大型重機で造成されたコースでは味わえない趣きを感じさせてくれる。重機が導入できるようになった50年代後半以降も「原地形を活かす」というコンセプトは貫いた。
日本固有の松をいかしたコースが多いのも特徴。たとえば、初期の傑作と言われる「大洗ゴルフ倶楽部」や「日光カンツリー倶楽部」は、もともと生えていた松の木にハザードの機能をもたせ、フェアウェイバンカーを少なくした設計となっている。当時、井上は『この松が育つ頃には日本屈指の名コースになっていよう。松の枝が特有のハザードとなろう』と語った。
井上誠一設計コースの中でも、クラシックコースの趣きあふれた、この時期のコースは特に評価が高く、例えば、会員権相場を見ても高値のものが多い。その後にも「傑作」と呼ぶべきコースも多いが、あえて傑作期とした。
【傑作期】と名づけた時期に手掛け、現存するコース
・霞ヶ関カンツリー倶楽部 西コース(1932)
・那須ゴルフ倶楽部(1936)
・日立ゴルフ倶楽部(現大みかクラブ)(1936)
・川崎国際生田緑地ゴルフ場(1952)
・新山口カンツリー倶楽部(1952)
・大洗ゴルフ倶楽部(1953)
・鷹之台カンツリー倶楽部(1954)
・愛知カンツリー倶楽部(1954)
・日光カンツリー倶楽部(1955)
・西宮カントリー倶楽部(1955)
・札幌ゴルフ倶楽部 輪厚コース(1958)
・龍ヶ崎カントリー倶楽部(1958)
・武蔵カントリークラブ 豊岡コース/笹井コース(1959)
・枚方カントリー倶楽部(1959)
・桑名カントリー倶楽部(1960)
・大利根カントリークラブ(1960)
【世界基準期】大型重機の登場と海外視察の経験で、コース設計が変化
1960年代に入ると、谷を埋める、土を盛り上げる、池を造成するなど、手造りの時代には不可能だったことが、大型重機の登場で可能になった。
たとえば1962年に開場した「春日井カントリークラブ」は、当時としては最大級の土量440万立方メートルを切り盛りして地形を造り直している。井上らしさを随所に残しながら、のびのびとしたフラットなホールなど、それまでにはなかった設計が見られるようになった。
また、1962年には、60日に及んだ欧米視察旅行を経験。米国のオーガスタナショナル、パインハーストはじめ、スコットランドのセントアンドリュース、カーヌスティ、ミュアフィールドといった、世界の名コースをつぶさに観察。井上らしさが揺らぐことはなかったが、作風に変化が現れた。
60日間 世界視察の旅で井上自身が撮影
【世界基準期】に手掛けたコース
・戸塚カントリー倶楽部 西コース(1962)
・赤倉ゴルフコース(1963)
・東京よみうりカントリークラブ(1964)
・春日井カントリークラブ(1964)
・天城高原ゴルフコース(1965)
・室蘭ゴルフ倶楽部 白鳥コース(1965)
・伊勢カントリークラブ(1965)
・いぶすきゴルフクラブ 開聞コース(1968)
・佐賀カントリー倶楽部(1971)
【独創期】 バンカー形状やコースのラインが変化した晩年
あるがままの土地に、木々を巧みに使って男性的なコースを造り出していた初期。大型重機の登場でよりダイナミックな造成が可能になった中期。そして晩年、作風はさらに成熟の度合いを増していく。
「自然の地形を極力残し、無闇にバンカーなどで区切ったりしてはいけない。コースの法面をやむ得ず造成する場合は女性の体の線を描くようにしなさい」とは、赤倉ゴルフコースの復旧工事(1978年)の際に、井上がスタッフに指示した言葉だ。
コース設計により女性的な曲線美を取り入れるようになり、カモメの形をしたバンカーなど、遊び心のあるデザインが見られるようになる。
【独創期】に手掛けたコース
・鶴舞カントリー倶楽部(1971)
・烏山城カントリークラブ(1973)
・札幌ゴルフ倶楽部 由仁コース(1974)
・南山カントリークラブ(1975)
・葛城ゴルフ倶楽部(1976)
・瀬田ゴルフコース 北コース(1978)
・大原・御宿ゴルフコース(1982)
・浜野ゴルフクラブ(1984)
・スターツ笠間ゴルフ倶楽部(1985)
「コースは美しく、戦略的でなければならない」との信念を持ち、コースに適さない場所は打診を断った、芸術家肌で完璧主義者だった井上誠一。そのコースは日本のゴルファーの財産でもある。
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