学生時代に「廣野ゴルフ倶楽部」の造成助手をしたことがはじまり
上田治は1907年大阪府茨木市に生まれる。旧制茨木中学、旧制松山高校(愛媛県)、そして京都帝国大学農学部に進学し林業を学んでいた。そんなある日、恩師の勧めで廣野ゴルフ倶楽部の造成現場に助手として加わることになった。
東京ゴルフ倶楽部は駒沢コースの地代値上げ問題が再燃したため、埼玉県膝折村に移転を決めた。新コース(朝霞)は世界一流の設計家を招き、世界にも通用するコースを造りたい願いがあった。
日本でもその名前が知られていた英国人、ハリー・コルトに依頼することを決め、東京GC会員の岩永祐吉(日本の通信事業経営者)が、友人であったバーナード・ダーウィンを通じ、ハリー・コルトに来日をお願いした。
バーナード・ダーウィンは「種の起源」で有名な進化論学者チャールズ・ダーウィンの孫にあたり、英国では最高のエッセイストの1人。ケンブリッジ大学卒業後は弁護士になり、ゴルフでもR&Aのキャプテンを務めた人物だ。
しかし、コルトは高齢を理由に来日を固辞。代わりに自身の設計事務所の共同経営者で弟子であるC・H・アリソンを推挙した。アリソンの手腕は未知数、果たして高額な設計料に見合う仕事をしてくれるのだろうか。
朝霞コース造成プロジェクトの中心的人物、大谷光明は京都を案内し、アリソンの芸術的センスをテストした。
大谷は京都生まれの浄土真宗本願寺の僧侶であり、JGA設立に尽力した人物。アリソンには、とくに説明することなく桂離宮、西郊、北郊の寺院の庭、修学院離宮などを案内し、どこが一番いいと思ったかを聞いたところ、アリソンは「桂離宮だ」と即答したことで、その確かな鑑識眼に大谷は安心したという。
帝国ホテルに10日間こもり書き上げた朝霞コースの図面の出来栄えは素晴らしく、大谷光明や赤星六郎ら、日本でコース設計に携わっていた人たちは、皆驚かされた。
アリソンの設計思想は、自然の地形を生かし、コースは自然との調和が図れるよう植物の植生、土壌、水系などの現地調査を行ってから設計する。
各ホールの距離、地形、ハザードの位置、グリーンの形状、アンジュレーションに個性を持たせ、1番から18番まで流れがあり、「戦略型」のコースであること。日本伝統の造園技術を学び、コースの造成に生かすこと。
コース設計家の使命とは、与えられた地形から最大限の上品さ、優美さを引き出すことであると。日本のゴルフコース設計の二大巨頭、井上誠一、上田治の作風にもこの考え方が表れている。
アリソンの日本滞在はたった2カ月。その間、東京GC朝霞コースだけでなく、霞ヶ関CC東コース全ホール改修案を作成し、朝霞コースのフォアマンとして来日したジョージ・ペングレースと井上誠一によって改造工事が行われた。
その頃、関西では舞子CCの役員たちが新コース(廣野GC)の造成を計画中だった。18人の発起人を牽引したのは鈴木商店ロンドン支店長として大活躍した高畑誠一。「英国政府といえども一介の客にすぎぬ」と強気のビジネスを展開。スエズ運河を通る船の1割は鈴木商店の船と言われ、日本一の総合商社にまで押し上げた人物だ。
高畑はアリソンの宿泊先の帝国ホテルを訪ね、帰国ルートが神戸から上海、シンガポールと知ると、神戸に招いた。途中、川奈に立ち寄り、その地形に感銘したアリソンは富士コースを設計(造成は丸毛信勝)、療養中だった井上誠一と運命的な出会いをする。
神戸に到着したアリソンは、志染村廣野新開の候補地を視察。24万坪の用地は緩やかな起伏、谷、池、それに松林が広がっていた。当初はルートプランのだけの契約だったが、オリエンタルホテルに3日間こもり18ホールの詳細設計図を完成させ、帰路についた。
廣野ゴルフ倶楽部の造成は、高畑と神戸高等商業学校(現・神戸大学)で同窓の伊藤長蔵が指揮をとり、上田治は芝の管理助手として参加する。
このときコースレイアウトや築造技術を学び、1932年のコース完成後は、嘱託グリーンキーパーとなり、戦中戦後は、支配人として廣野ゴルフ倶楽部に勤務。1954年(昭和29年)に退職し、設計家として独立した。廣野育ちの上田治は、「アリソンのDNA」という意味では井上よりも上田の方がより影響を受けたと言える。
年表で見る「上田治」の歩み
上田治の設計第一号は、1934年開場の門司ゴルフ倶楽部になる。門司GC初代理事長、出光佐三(出光興産創業者)は、1967年の会報誌松ヶ江NO28の座談会の中で設計を上田治に頼んだ事情を述べている。
「当時、東京の朝霞コースが日本一といわれていた。アリソンという人が設計したもので、アリソンバンカーといわれる難しいバンカーがあった。関西の廣野もアリソンが残したコースです。その廣野の高畑誠一が、僕と学校(現・神戸大学)が同期だった関係で、彼に頼んで上田治君にここに来てもらった。廣野じゃ上田君をよそに貸すのはうるさかったらしく、工事中に高畑君がここへやってきて、『内緒にしてくれよな』って言いました」
門司ゴルフ倶楽部は、上田治の特徴であるアリソンの影響を受けた砲台グリーンとアリソンバンカーが各ホールに施されている。ティに立つとグリーンまで見渡せるホールが多く、一見やさしそうに見えるが、各ホールをセパレートしている老松の高さと枝ぶりが、球を曲げるとレイアップを要求してくる。
グリーンは小ぶりで高麗芝の影響もあり、グリーンセンターを狙ったボールは高い球かスピンの利いたショットでなければグリーンオーバーは必至。狙い目はグリーンセンターより手前目となるが、グリーン周りをアリソンバンカーがガードしているため、花道は狭く、数十センチの誤差で餌食となる。
上田治が設計したゴルフ場の会員権情報は、ゴルフダイジェスト会員権サービス部へお気軽にご相談ください
ベルリン五輪に水泳の審判員として参加。大会後、欧米のコース視察へ
上田治は、茨木中学の時に100メートル背泳ぎで日本記録を樹立し、20歳の時には第8回極東オリンピック上海大会に出場を果たす水泳選手の経歴を持つ。
1936年の第11回ベルリンオリンピックでは、水泳の審判員として参加。大会後には9カ月に渡り欧米のゴルフ場視察をし、この時に得た知識が後に設計家として評価される基礎となった。
上田を乗せた船は当時の渡欧ルートにのっとり横浜港を発ち、一路西へ。紅海、スエズ運河を経て、地中海に入り、マルセイユに到着。そこから鉄道でドイツに向かった。五輪後すぐに上田は英国に渡る。
イングランドの内陸コース、スコットランドのリンクスを目の当たりにし、日本との様々な違いに驚いた。芝草の種類や管理方法も仔細に視察した。
アリソンの師匠、ハリー・コルト設計のセントアンドリュースイーデンコースに感銘し、ノースベリックでは有名な15番レダンホールを視察。ミュアフィールドでは赤星六郎と鉢合わせ。「全英オープン時の改造でよくなった」と赤星が誉めていたという。
英国に続いて米国へ。ゴルフの歴史がたどった航路を上田も経験した。東海岸から上陸した。
ベスページで米国のスケールに度肝を抜かれ、バルタスロールでは、名設計家ティリングハストのレイアウトを学ぶ。パインバレーでは「大きすぎるバンカーが初心者に厳しすぎるやうに思われる」(上田)と設計の深さを認識した。
パインハーストでは、井上、上田以前の日本のクラシックコースに多大なる影響を与えた設計家ドナルド・ロスと話す機会を持ち、大きな収穫を得た。
西海岸ではモントレー半島のサイプレスポイントとペブルビーチを視察。サイプレスポイントはアリスター・マッケンジーによる美しいレイアウトからエッセンスを吸収。ぺブルビーチは、帰国後の大阪ゴルフクラブ設計のヒントとなる入江と山林に共感した。
大阪ゴルフクラブは、廣野の高畑誠一をはじめとする6人の有志が中心となり、大阪府泉南郡淡輪深日の海岸丘陵地24万坪を買収し、6700ヤード、パー72のチャンピオンコースが計画された。設計は欧米の名コースの視察から帰国したばかりの上田治。
自然の地形をできるだけ残して設計された18ホールは、それぞれ多彩な表情を見せる。フェアウェイのうねり、砲台グリーン、アリソンバンカーでコースはより立体的に。縦と横だけでなく斜めの要素は、ノースベリックの15番レダンを彷彿とさせる。海を臨むホールは9つ。海風が加わり、関東の川奈ホテル富士コースとともに関西唯一のシーサイドチャンピオンコースは完成した。
戦前の設計は「門司GC」と「大阪GC」だけ
戦前の上田治の作品は、門司GCと大阪GCの2コース。戦後は廣野ゴルフ倶楽部の復旧に務めた。太平洋戦争によりコースは壊されていく。フェアウェイはさつま芋畑となり、グリーンには戦闘機の滑走路が敷かれた。
自ら造成に携わったコースを壊さなければいけない悲劇が、後の設計家としての信念につながっていく。27年勤めた廣野GCを退社後、設計家として独立した上田は、設計の依頼があれば時間の許す限り仕事を引き受けた。
上田治のコースは、もうひとりの巨頭、井上誠一と対比されることが多い。原風景を生かし、あるがままの自然を引き立たせながらコースを造り上げる井上に対し、上田は土木重機を駆使して大地を削り、大量の土砂を動かし高低差を生かした変化に富んだホールを構築して戦略性を高める手法を好んだ。
そのため、「柔の井上、剛の上田」と言われるが、上田が大阪出身ということも、その手法に起因している。
関西地方は山岳や丘陵が多く、中にはとてもコースにならない土地もあった。それでも上田は、「OBをつくらない」、「ローカルルール的な設計は避ける」、「変則スウィングを要するようなきついアップダウンはつくらない」の3原則を守った。
「土地が狭いと不本意ながら緑の山や丘を削って裸にしなければならない」と言い、たとえ土地が広くても土木重機を駆使して大地を削り、大量の土砂を動かし見た目には平坦な距離の長いコースを数多く造りだしている。
ブラインドホールやドッグレッグホールがあるのも上田設計の特徴と言える。ブライドホールは想像力を要求し、ドッグレッグホールのティショットは左右だけでなく、縦の距離感を要求した。
アリソンの影響とスコットランドの視察により、砦のような楕円状砲台のグリーンを45度傾けた「レダングリーン」と呼ばれるパー3が必ずと言えるほど造られた。
砲台グリーンの周りをガードするアリソンバンカーを多用し、バンカーのアゴの上にマウンドを造り、バンカーショットには高さと距離を要求した。そして、アリソンに造園の知識を買われ廣野GC造成に助手に加わった上田は、アリソンの設計思想のひとつである日本伝統の造園技術「借景」をコース設計やレイアウトに取り入れた。
借景は庭園外の山や樹木、竹林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させたダイナミックな景観を生み出した。
廣野GCの造成助手からスタートし、戦前は門司GC、大阪GCの2コースを設計。戦後は、古賀GC(1953年)を皮切りに、設計家として独立後は下関GC(1956年)、四日市CC(1959年)など、日本オープンの大舞台となる名コースを次々と造り出し、1977年開場のこだまCC(埼玉県)まで、55コースを設計したが、病にかかる2年前の「くまもと中央CC」(1963年)が、自身最後の事実上の責任設計(遺作)とも言われている。
熊本中央ゴルフ場は、菊池市旭志に広がる丘陵地10万坪を購入。さらに隣接する10万坪を熊本市の有力者の仲介で、所有者である安達建設と交渉することとなった。
安達建設は、福岡県の大宰府GCを造成するなどで知られた存在で、譲渡の条件として、「コース設計は大宰府GCの設計者である上田治に依頼すること」(安達建設社史では、弟子の鈴木正一)、「コース造成は安達建設とすること」の2つを受け入れ、売買は成立した。
東に火の山阿蘇、西に秀峰金峰山を望み、天に広がる雄大なスケールを持つ菊池野の丘陵地に足を運び、ゴルフコースにとって最高の条件を備えた地形であることを確信し、夢にまでみた理想のコース、自身の集大成をここに完成させた。
18ホールのうち、ブラインドホールはひとつ、ドッグレッグは15番のみ。さらにアウト1番から、「5、4、3、4」、そして「5、4、3、4、4」と続くパーの配列は、インコースでもまったく同じリズムで繰り返される。
これこそゴルファーの心理を知り尽くした上田治一流の遊び心により醸しだされた俳句や茶道と同質の日本的ハーモニーといえる。(了)
上田治設計コース一会員権相場一覧
【戦前に開場したコース】
コース名 | 相場 | 名変 | 開場 |
---|---|---|---|
門司 | 16 | 60 | 1934 |
大阪 | 60 | 100 | 1937 |
【戦後~1960年代に開場したコース】
古賀 | 395 | 300 | 1953 |
東京都民 | 閉鎖 | 1955 | |
森林公園 | パブ | 1955 | |
広島西条 | 450 | 150 | 1955 |
下関 | 20 | 60 | 1956 |
茅ヶ崎 | - | - | 1957 |
奈良国際 | 625 | 302 | 1957 |
佐世保 | 13 | 25 | 1957 |
松山 | 26 | 30 | 1958 |
緑が丘 | 125 | 200 | 1959 |
四日市 | 50 | 200 | 1959 |
飛鳥 | 80 | 150 | 1959 |
若松 | 27 | 80 | 1959 |
岐阜 | 135 | 400 | 1960 |
茨木国際 | 26 | 80 | 1960 |
箕面 | 14 | 50 | 1960 |
宇部72 | 275 | 50 | 1960 |
小野 | 表示不可 | 300 | 1961 |
よみうりWEST | - | - | 1961 |
小郡 | 125 | 50 | 1961 |
小倉 | 50 | 45 | 1961 |
茨城 | 540 | 100 | 1962 |
京都舟山 | 40 | 80 | 1962 |
よみうり | 315 | 150 | 1962 |
樽前 | 16 | 30 | 1963 |
長良川 | 2 | 10 | 1963 |
八本松 | 426 | 150 | 1963 |
米子 | - | - | 1963 |
くまもと中央 | 31 | 40 | 1963 |
出水 | 57 | 30 | 1963 |
岐阜関 | 285 | 300 | 1964 |
新居浜 | 60 | 30 | 1964 |
長崎国際 | 16 | 55 | 1964 |
別府扇山 | ‐ | 30 | 1964 |
札樽・朝里 | 12 | 10 | 1965 |
宇治 | 25 | 30 | 1965 |
洲本 | 165 | 70 | 1965 |
長岡 | 60 | 60 | 1966 |
名四 | 188 | 募集 | 1966 |
橋本 | 60 | 35 | 1966 |
武庫ノ台 | パブ | 1966 | |
奈良万葉 | 70 | 募集 | 1967 |
加西インター | 35 | 50 | 1968 |
近鉄賢島 | 95 | 100 | 1969 |
奈良 | 20 | 15 | 1969 |
【1970年代に開場したコース】
新千葉 | 12 | 15 | 1970 |
大山 | 45 | 100 | 1970 |
小野東洋 | 324 | 募集 | 1971 |
富士カン可児 | 15 | 100 | 1972 |
有馬ロイヤル | 230 | 募集 | 1972 |
塩嶺 | 65 | 20 | 1973 |
花屋敷よかわ | 50 | 50 | 1973 |
播州東洋 | 70 | 募集 | 1973 |
こだま | パブ | 1977 |
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