雲仙は昔、温うん泉ぜんとも言ったらしい。明治開化以来、アジアに住む外国人の間では、温泉リゾートとして有名。上海、大連、遠くはウラジオストックからも訪れた。大正4年には、英、米、露、仏など19カ国3万3352人来訪の記録もある。上海在住のベストセラー作家「大地」の作者パール・パックも来たといわれている。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

ゴルフ場づくりに奔走した倉場富三郎

明治30年代、海抜850メートルの元火口原、池の原馬の放牧地で、棒を振って遊ぶ派手な服装の外国人達がいた。それがゴルフだと、目をつけたのは長崎県。県立雲仙公園の名物になると考えた。ゴルフ場造りに奔走したのが倉場富三郎。「蝶々夫人」のグラバー邸で知られるトーマス・グラバーの息子だ。

画像: 8番ホール/486㍎/パー5 やや打ち下ろしで、グリーン手前は窪地になっている。ここに落とすとグリーン面は見えず、しかも右奥方向に傾斜していることからアプローチはかなり難しくなる

8番ホール/486㍎/パー5 やや打ち下ろしで、グリーン手前は窪地になっている。ここに落とすとグリーン面は見えず、しかも右奥方向に傾斜していることからアプローチはかなり難しくなる

大正2年8月1日開場。六甲山(神戸)、横屋、根岸に次ぎ我国4番目の開場だが、現在も残るコースでは神戸に次ぎ2番目。パブリックゴルフ場としては日本初。公営ゴルフ場でも第1号。コースは、9ホール、3200㍎、ボギー39。設計者は、英国人商社マンのB・オーレス。設計は経験ゼロの素人だった。

コースはできたが、知識階級でさえ「ゴルフとはゴリラのことか」という時代だ。入場者が少ない。大正8年には年間入場者僅か16人という記録も残る。

画像: 1番ホール/パー5 右に大きく曲げると池、左にはバンカーが待ち受ける

1番ホール/パー5 右に大きく曲げると池、左にはバンカーが待ち受ける

戦時中は赤トンボの飛行練習に使われていた

昭和に入ると日本人来場も増え始める。『このあたりに球落ちたりとさがす吾と、馬の鼻づらとならびけるかも(下村海南)』と短歌にも詠まれた。それも束の間、戦時中は、6、7番ホールが赤トンボ(複葉練習機)の飛行練習に使われた。戦後は昭和26年まで米軍が接収。接収解除を記念して行なわれる雲仙国際ゴルフ大会は今も続く。

優勝者リストに中村寅吉、清元登子の名が並ぶ。雲仙名物は、カラスのいたずらと噴火だ。餌が少なくなる11、12月になると、カラスがボールをくわえて飛び去る。カラスローカルルールがあるほどだ。柳田国男は、昔カラスに丸い餌を与えた「鴉勧請」という風習の名残では? と言っている。

雲仙ゴルフ場
開場日:大正2年8月14日
コース:9H/6133Y/P72(グリーンを変えて2周)
設計:B・オーレス
長崎県雲仙市小浜町雲仙548 
☎0957-73-3368
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美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

取材・文/田野辺薫

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