【問題1/根岸ゴルフコースは何の娯楽施設に中にあった?】
冬季になると六甲山頂は寒冷と積雪により12月から3月までクローズとなるため、冬でもゴルフが楽しめるようにと神戸郊外魚崎町横屋に6ホールの横屋ゴルフアソシエーションを造り、明治39年には神戸同様に貿易港だった横浜に居留外国人ためのニッポン・レース・クラブ・ゴルフィング・アソシエーションが誕生していますが、ゴルフコースは「ある娯楽施設」の中にありました。ある施設とは何でしょう?
【問題2/名門鳴尾を設計した3兄弟の名前は?】
香港在住の貿易商の父とともに神戸へ移住。2人の兄とともに日本で3番目に誕生した鳴尾ゴルフ倶楽部の創立メンバー38人の中に3兄弟の名前を探すことができる。
長兄の影響でゴルフをするようになった末っ子は交通不便な六甲山頂よりももっと手軽で便利な場所にゴルフ場があればいいと競馬場跡の鳴尾浜に3ホールを生んだ。3兄弟は1930年(昭和5年)鳴尾浜から内陸の猪名川(現在の川西市)に移転を余儀なくされた鳴尾GCを設計。末っ子はその後日本で「24コース」を設計し、1980年亡くなった。英国人の父、日本人の母を持つ大正、昭和のゴルフ史に名を残した3兄弟は、何兄弟?
【問題3/日本初のベント芝は「何ベント」と呼ばれている?】
日本人よる日本人のゴルフコースを造ろうと1913年(大正2年)12月「東京ゴルフ会」が作られる。東京府荏原郡駒沢村(現在の東京都世田谷区駒沢)の通称・大切山(でんぎりやま)に3万坪余の土地を借りて造成ははじまった。翌1914年(大正3年)6月、「東京ゴルフ倶楽部」が創設される。6ホールで仮開場した後に9ホール2300ヤードとなるが、ゴルフ場はサンド・ティ、サンド・グリーン、
フェアウェイは雑草と小砂利だったといいます。
ここで問題です。地代高騰により東京ゴルフ倶楽部は駒沢から朝霞へ移転します。朝霞コースは駒沢とは違い一面ベント芝の美しいコースだったと言われています。そのベント芝はなんと呼ばれているでしょうか?