「城陽カントリー倶楽部」は「名門」を理念としてスタートした倶楽部であり、そこには2人のキーマンの存在があった。初代キャプテン、社長の寺田甚吉とコース設計の佐藤儀一だ。寺田は、戦前の「大阪ゴルフクラブ(淡輪)」以来、関西の多くのゴルフ場創設に関わった功労者。会社は、その経験と手腕を買って、経営の中枢に据えた。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

寺田甚吉が目指したのが「廣野ゴルフ倶楽部」。コース設計に、日本アマ4勝、廣野GCのクラブ選手権12回優勝の佐藤儀一、ハウス設計に、廣野GCのクラブハウスを設計した渡辺節を選んだ。昭和33年9月11日、母体会社「日本観光ゴルフ株式会社」設立。

画像: 東1番ホール/464㍎/パー4 ティからホール全体が一望できるやや打ち下ろし。フェアウェイ右にバンカーがありプレッシャーを受ける

東1番ホール/464㍎/パー4 ティからホール全体が一望できるやや打ち下ろし。フェアウェイ右にバンカーがありプレッシャーを受ける

昭和33年9月26日地鎮祭。宇治町に隣接する久世郡城陽町字寺田奥山の55万坪を買収成功。旧陸軍長池演習場に続く南面の緩やかな傾斜地だった。

寺田は、コース近くに住居を移して完成する3年間、ゴム長、ジャンパー姿でコースに熱中、17年間キャプテン、社長を勤め、城陽のロゴ、エンブレムも彼の図案だという。

京都の気品を思わせる佇まい

昭和34年7月23日、東コース18ホール・6877㍎・パー72が開場。折から2グリーン全盛期、戦前の名門コースも1グリーンから2グリーンに改造されつつある中、佐藤儀一の凄さは、36ホールを高麗芝の1グリーンとして造ってみせたこと。

第1打は広く、次第に400平方㍍前後の小さな砲台グリーンに絞り込まれてゆくクラシックなデザイン。グリーンを守るバンカーは、彫りが深く戦略的に配置されて、アリソンの廣野DNAが連想された。

画像: 西4番ホール/338㍎/パー4 ティショットは正面右サイドのバンカー狙い

西4番ホール/338㍎/パー4 ティショットは正面右サイドのバンカー狙い

画像: 東6番ホール/365㍎/パー4 打ち下ろしのやや右ドッグレッグホールで、グリーンを囲むバンカーは深い。2打目の正確性が求められる

東6番ホール/365㍎/パー4 打ち下ろしのやや右ドッグレッグホールで、グリーンを囲むバンカーは深い。2打目の正確性が求められる

昭和35年7月9日、西コース、18ホール、6347㍎、パー71開場(現在、東西の両コースともベント1グリーン)。寺田は当初、クラブハウスは廣野GCのような器を想定し、そのため渡辺節を起用した。

しかし「この京都には、やはり日本風が似合う……」と、寺田の息子の意見に従ったという話が残る。品格を貴しとする気風は今も、平安の俤を漂わすハウス内に残る。誰も声高にならず、誰も小走りにならず、これが京都の仕草かと思わせる佇まいであった。

画像: 東3番ホール/484㍎/パー5 大きな池越えのティショット。2段グリーンになっているため、ピン位置が奥の場合15~16ヤード打ち上げ

東3番ホール/484㍎/パー5 大きな池越えのティショット。2段グリーンになっているため、ピン位置が奥の場合15~16ヤード打ち上げ

城陽カントリー倶楽部
京都府城陽市寺田奥山1-46 ☎0774-52-2525
開場日●昭和34年7月23日(東)昭和35年7月9日(西)
コース●18H/6808Y/P72(東)
    18H/6241Y/P71(西)
監修●佐藤儀一
公式ホームページはコチラ

画像: 東9番ホール/217㍎/パー3 グリーンは左サイドが手前に広い

東9番ホール/217㍎/パー3 グリーンは左サイドが手前に広い

取材・文/田野辺薫

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

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