昭和20年代前半、下関周辺にゴルフ場はない。関門海峡を渡って門司ゴルフ倶楽部へ通った。昭和27年12月、ようやく川棚温泉ゴルフ倶楽部3ホール(下関前身)が石堂山麓に生まれる。さらに18ホール計画を立て、上田治に診断を仰ぐと、足下に広がる「八ヶ浜」を適地だと推した。「砂浜ですよ」「砂浜だからいいのだ」の応酬。それが始まりだった。

八ヶ浜は別名「森の白浜」といわれるほど松一色。建治元年(1275年)、元の国使一行45名が上陸、杜世忠ら5名が鎌倉に送られるが、龍ノ口(現藤沢市)で斬首される。残った40名も八ヶ浜で処刑。その遺跡は、1、2番ホール左側の林に、元使首掛けの松、元使四十塚として今も残る。

怒った元首フビライ(忽比烈)は、14万の兵、900艘で来寇、それが「弘安の役」である。防塁跡は1番ホール左の林に残っている。

閑話休題、八ヶ浜の用地買収は難渋する。歴史のある古風な土地柄。西洋人が女連れで遊ぶようなゴルフは、村の歴史を汚すと反対された。道路に杭を打っての抵抗だった。

画像: 1番ホール/522㍎/パー5 右は響灘。右サイドから張り出す松が狙いどころを絞る

1番ホール/522㍎/パー5 右は響灘。右サイドから張り出す松が狙いどころを絞る

画像: 2番ホール/383㍎/パー4 右サイドは響灘の海と松林。海風を計算して右サイドに打ち出したい

2番ホール/383㍎/パー4 右サイドは響灘の海と松林。海風を計算して右サイドに打ち出したい

18ホールでは松が無くなると騒がれ、上田設計は9ホールずつ、最初の9ホールと残りの9ホールまで、18ホールを揃えるのに4年の間隔を置いて、地元の反発対を和らげながらの作業となった。

クラブハウスのロッカー棟、屋根を貫いて松の幹が伸びていたのは、伐らずに残した苦心の名残り松だった。新クラブハウスとなった今も残っている。

「中部三兄弟のために造られた」というゴルフ場伝説

1年2カ月をかけて用地買収が終わり、昭和29年6月、コース工事に着手、8月に芝張りを完了するが資金難に陥り、大洋漁業の中部利三郎が乗り出す。

10月には「温泉」を外して「川棚ゴルフ倶楽部」と改め、30年3月に「下関ゴルフ倶楽部」と改称。

9月に組織改正して中部利三郎が理事長に。10月コースの全面改造に着手、翌年31年7月改造9ホールによる正式開場。

18ホールとなるのは、造成から6年後の昭和35年10月30 日。コースの名を挙げたのは、日本アマ優勝、中部一次郎(1回)、銀次郎(4回)の存在だ。

そこから中部利三郎が、一次郎、幸二郎、銀次郎、三兄弟のために造ったゴルフ場だという伝説が生まれた。

画像: 11番ホール/427㍎/パー4 広く真っすぐなホール。2打目以降は打ち上げていく

11番ホール/427㍎/パー4 広く真っすぐなホール。2打目以降は打ち上げていく

画像: 12番ホール/512㍎/パー5 左ドッグレッグ。グリーン手前右にある松がスタイミー

12番ホール/512㍎/パー5 左ドッグレッグ。グリーン手前右にある松がスタイミー

画像: 12番パー5のグリーン手前の松

12番パー5のグリーン手前の松

画像: 14番ホール/152㍎/パー3 距離的には難しくはないが、グリーンの右側まで池が広がる

14番ホール/152㍎/パー3 距離的には難しくはないが、グリーンの右側まで池が広がる

下関ゴルフ倶楽部
山口県下関市豊浦町大字黒井850 ☎083-772-0206
開場日:昭和31年7月22日
コース:18H/6944Y/P72
設計:上田治
公式ホームページはこちら

取材・文/田野辺薫
PHOTO/Hiroaki Yokoyama

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

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