ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
八ヶ浜は別名「森の白浜」といわれるほど松一色。建治元年(1275年)、元の国使一行45名が上陸、杜世忠ら5名が鎌倉に送られるが、龍ノ口(現藤沢市)で斬首される。残った40名も八ヶ浜で処刑。その遺跡は、1、2番ホール左側の林に、元使首掛けの松、元使四十塚として今も残る。
怒った元首フビライ(忽比烈)は、14万の兵、900艘で来寇、それが「弘安の役」である。防塁跡は1番ホール左の林に残っている。
閑話休題、八ヶ浜の用地買収は難渋する。歴史のある古風な土地柄。西洋人が女連れで遊ぶようなゴルフは、村の歴史を汚すと反対された。道路に杭を打っての抵抗だった。
18ホールでは松が無くなると騒がれ、上田設計は9ホールずつ、最初の9ホールと残りの9ホールまで、18ホールを揃えるのに4年の間隔を置いて、地元の反発対を和らげながらの作業となった。
クラブハウスのロッカー棟、屋根を貫いて松の幹が伸びていたのは、伐らずに残した苦心の名残り松だった。新クラブハウスとなった今も残っている。
「中部三兄弟のために造られた」というゴルフ場伝説
1年2カ月をかけて用地買収が終わり、昭和29年6月、コース工事に着手、8月に芝張りを完了するが資金難に陥り、大洋漁業の中部利三郎が乗り出す。
10月には「温泉」を外して「川棚ゴルフ倶楽部」と改め、30年3月に「下関ゴルフ倶楽部」と改称。
9月に組織改正して中部利三郎が理事長に。10月コースの全面改造に着手、翌年31年7月改造9ホールによる正式開場。
18ホールとなるのは、造成から6年後の昭和35年10月30 日。コースの名を挙げたのは、日本アマ優勝、中部一次郎(1回)、銀次郎(4回)の存在だ。
そこから中部利三郎が、一次郎、幸二郎、銀次郎、三兄弟のために造ったゴルフ場だという伝説が生まれた。
下関ゴルフ倶楽部
山口県下関市豊浦町大字黒井850 ☎083-772-0206
開場日:昭和31年7月22日
コース:18H/6944Y/P72
設計:上田治
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取材・文/田野辺薫
PHOTO/Hiroaki Yokoyama
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
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