ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
小山ゴルフクラブのコースは、瑞穂の父、久保田篤次郎経営の農場跡地に造られた。思い川河畔の一帯は、明治時代まで官林の一部だった。明治17年、朝蘇王朝の甲申政変に敗れて亡命した金玉均は、官林の中にあった三階建の望楼(後の久保田邸)にかくまわれた。
明治後期、官林は金玉均と親交のあった須永元が入手、須永農場となった。
昭和19年、須永農場は久保田家所有の農場となる。久保田瑞穂の妻・美代は、「桜の花の中に居るような夢の景色でした」と述懐している。
思い出の土地をゴルフ場に
瑞穂の父、篤次郎は久保田鉄工所創業者・久保田権四郎の養子。
昭和33年、篤次郎は、久保田農場33万平方㍍と隣接の山林33万平方㍍を併せた土地に18ホールを計画した。美代は「亡き瑞穂の思い出の土地を大好きだったゴルフ場に、と思っていたのでは」と語っている。
小山ゴルフクラブは昭和35年11月に開場。コース設計は大林組の間野貞吉だが、安田幸吉プロ、篤次郎自身の意見も取り入れられた。ちなみにプロゴルファーの安田幸吉は中国から引揚げた後、久保田農場で体を癒し、再起に備えていた。復員直後の浅見緑蔵もいたという。
桜にボールを当てると2ペナ
造成は久保田鉄工所の耕耘機と地元農民の人海戦術で行なわれた。芝張りは横一列に並ぶ田植方式で進めた。「ゴルフ場経営もひとつの農業である」という哲学によるものだった。
アウトコースは、旧久保田邸庭園をほぼ残したレイアウトで、特に7番ホールの35本の桜並木は見事で「桜吹雪の下でプレーしたい」と願ってプロになった金子良平は、プロの人生のほとんどを小山ゴルフクラブで過ごした。
その桜も時とともに枯れる。硬いボールが当たると、桜は、涙のようにヤニを流してやがて枯れる。金子は、桜にボールを当てたものは2ペナだ、と怒りの提案をしたという。
小山ゴルフクラブ
栃木県小山市大字喜沢1140
☎0285-22-1084
開場日:昭和36年11月3日
コース:18H/6577Y/P72
設計:間野貞吉
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