1949年8月27日、南鳥島近海で発生した台風10号(キティ台風)は、中心気圧956ヘストパスカルの勢力を保ったまま小田原の西に上陸し、暴風雨は箱根を直撃した。箱根外輪山のカルデラに1917年、日本で2番目に誕生した仙石ゴルフコースも2ホールが山崩れによって大きな被害を受けた。

昭和天皇がゴルフを始めた仙石ゴルフコースは、1935年に赤星四郎(1895-1971)によってインコースを増設、18ホールのゴルフ場になっていたが、キティ台風によって14番と15番の2ホールが壊れ、希少な赤星四郎オリジナル設計は消えてしまった。

画像: 右端が赤星四郎。左端は弟の六郎

右端が赤星四郎。左端は弟の六郎

箱根外輪山の盆地地形を活かした「箱根カントリー倶楽部」

日本のゴルフコース設計に多大なる影響をもたらしたC・H・アリソンの帰国後、大谷光明、赤星四郎、六郎は、欧米で学んできたスウィング技術の伝承だけでなく、コース設計を本格的にスタートさせた。赤星六郎は1944年享年42歳で他界してしまったため、我孫子ゴルフ倶楽部(1930年)と相模カンツリー倶楽部(1931年)の2コースを残すのみとなってしまったが、兄の四郎は、くまもと阿蘇CC湯の谷コースの前身となる黒石原ゴルフ倶楽部や藤澤カントリー倶楽部など消滅してしまったゴルフ場もあるものの、「18コース」を現在に残している。

1954年に完成した箱根カントリー倶楽部は赤星四郎の代表作のひとつに数えられ、高く評価されているが、それ以前の黒石原GC(1931年)、仙塩GC(1935年)、函館GC(1936年)、熱海GC(1939年)は、いずれも9ホールのゴルフコースだった。日本の国土の7割以上が山林という中で、18ホールを造るまとまった土地を確保することは難しく、たとえ広い土地であってもゴルフ場適地とは限らない。アリソンに本格的なゴルフコース設計を学んだとは言え、その実力を発揮するまでには時間を要した。

四郎は1932年、相模野台地の南端(現在の藤沢市善行)に18ホールの藤澤カントリー倶楽部を完成させた。1937年の関東八倶楽部競技では、東京、我孫子、藤澤、相模、霞ヶ関、武蔵野、程ヶ谷、鷹之台の順で3位になる強豪倶楽部となり、コースも日本有数のチャンピオンコースと高い評価を得ていた。霞ヶ関CC東コースではルートプランは藤田欽哉が描き、赤星四郎を含む4人が設計を分担。四郎がまとめあげたとも言われているが、18ホール設計のソロデビュー作という意味では藤澤CCとなる。

しかし、太平洋戦争に突入すると、全国のゴルフ場はすべて閉鎖され、その多くは農地用地に転換された。藤澤CCは1943年に閉鎖。横須賀海軍航空隊の基地となり、翌年藤澤海軍飛行隊が置かれ、コースは海軍藤澤飛行場となり、レイモンド設計のクラブハウスは司令部として用いられた。戦後、多くのゴルフ場は復旧するが藤澤CCは東洋航空藤沢飛行場、神奈川県の教育センター、体育センター、文教地区となった。

1945年終戦。その後10年間は、コースの復旧期と言える。西の名匠、上田治は1954年まで廣野ゴルフ倶楽部の支配人として「アリソンの名作」の復旧に務め、その後設計家として独立。1953年古賀ゴルフ・クラブからコース設計をスタートする。赤星の弟子筋の井上誠一は1952年、現在の川崎国際緑田生地ゴルフ場から再開。川崎国際の造成時は重機がまだなく、土の移動は人力によるもの。井上誠一の「手造りコース」という意味で歴史価値が高い。

画像: 四郎の弟子筋のひとりといえる井上誠一(左)、アリソンが設計した廣野GCの復旧に励んだ上田治

四郎の弟子筋のひとりといえる井上誠一(左)、アリソンが設計した廣野GCの復旧に励んだ上田治

赤星四郎の戦後第一号は1954年完成の「箱根カントリー倶楽部」になる。小田原や仙石原で人を雇い人力で土を削り、芝を植えた。箱根外輪山の稜線のうねりをフェアウェイやバンカーに生かし、日本人の体格がやがて向上することを念頭においてロングショットに重点を置いた。「これ以上広大なゴルフ場適地はない」と喜び、これまで9ホールの設計が多かった四郎のうっ憤を晴らすかのような雄大なチャンピオンコースを誕生させた。

画像: 箱根CCクラブハウスには四郎のゴルフ道具が所蔵されている。ペンで描かれたキャディバッグのマークは「赤と四」を組んだもの

箱根CCクラブハウスには四郎のゴルフ道具が所蔵されている。ペンで描かれたキャディバッグのマークは「赤と四」を組んだもの

「自然の傾斜を活かし、楽しむ。それが正当なゴルフだ」

赤星四郎は、「アンジュレーションこそゴルフの生命」、「傾斜はゴルファーの試験場」と言い、「もしコースが湖面のように平たん続きだったら、ゴルフはとうに滅びていただろう」、「心からアンジュレーションを愉しまなくて何がゴルフだ」という考えをもっていた。

米国のプロゴルファー、W・フォバーグが設計した程ヶ谷カントリー倶楽部を1935年に四郎が改造する。完成した18ホールを下見した会員のひとりが、「アップダウンがきつすぎる」と文句をつけた。すると赤星四郎は、烈火のごとく怒った。「君はゴルフの最も優れた特質も理解しないで、ただスコアだけを求めるのか、なんと貧相な」。ホールの途中にあえてペナル(科罰)を設けずとも、極力自然の地形(傾斜)を保つことで、正統のゴルフが楽しめる、それがゴルフ発祥の精神だと四郎はいう。

画像: 程ヶ谷CC16番ホール(376ヤード・パー4)。打ち下ろして、セカンドはグリーンに向かって打ち上げ。フェアウェイは右から池に向かって傾斜する

程ヶ谷CC16番ホール(376ヤード・パー4)。打ち下ろして、セカンドはグリーンに向かって打ち上げ。フェアウェイは右から池に向かって傾斜する

ダイナミックな傾斜の秀作「富士カントリークラブ」

箱根CCが完成すると、外輪山の静岡側、御殿場の裾野に富士カントリークラブを設計した。富士CCも箱根CC同様、自然の地形に溶け込むマザーネーチャー的なコースとなっている。

赤星四郎がコース設計の分野で活躍したのは、1960年から67年。コース造成にやっと重機が導入されはじめた頃で、年に1~2コースのペースでゴルフ場を開場させていった。

生涯の傑作を造ると心血を注いだ「阿蘇ゴルフ倶楽部(現 あつまる阿蘇赤水GC)」

晩年に設計した「あつまる阿蘇赤水ゴルフ倶楽部」(旧・阿蘇GC)は、「箱根CCの再来」ともいうべきゴルフ場適地との出合いに興奮した。

阿蘇カルデラのなだらかな放牧地。そこには自然そのものの地形と環境があった。「設計料など問題ではない。自分の生涯の傑作を造りたい」と熱が入った。建設工事は1年5カ月、溶岩との戦いだったが、1966年に現在の「杵島コース」と「中岳コース」18ホール完成した。「杵島コース」は樹齢50年の杉やヒノキに囲まれた林間コース、「中岳コース」は赤星四郎らしい力強い変化と広いフェアウェイを特徴とする。1976年から1993年まで、男子ツアー、ブリヂストン阿蘇オープンに舞台となった。

画像: あつまる阿蘇赤水GC杵島C5番ホール(388ヤード・パー4)バックティからは豪快な打ち下ろし。右サイドのバンカーわきからは100ヤード足らずだが、打ち上げで距離感が難しい

あつまる阿蘇赤水GC杵島C5番ホール(388ヤード・パー4)バックティからは豪快な打ち下ろし。右サイドのバンカーわきからは100ヤード足らずだが、打ち上げで距離感が難しい

赤星四郎設計コースの会員権情報

コース名売り買い名変
霞ヶ関・東譲不
仙塩停止中
富士屋ホテル仙石パブ
函館GC湯の川25710
熱海300募集
箱根7050※1050
富士5170
霞ヶ浦国際停止中
桜ヶ丘850750※600
東京国際160140100
伊豆にらやま604010
本厚木640530200
葉山国際10070※331.5
芥屋260相談50
阿蘇201015
程ヶ谷新コース譲不
御殿場10515
上総富士10520
相場・名変預託の単位は万円(会員権・名変料は税別) 
※名変料には預託金が含まれるゴルフ場があります
(全データはH31.4月現在)

美しい箱庭的な「本厚木カンツリークラブ」

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小さな宝石「熱海ゴルフ倶楽部」

画像: 熱海GCは9ホールのメンバーシップコース。7番ホール(498ヤード・パー5)は海岸地形を活かした高低差、海を眺める景色も魅力

熱海GCは9ホールのメンバーシップコース。7番ホール(498ヤード・パー5)は海岸地形を活かした高低差、海を眺める景色も魅力

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