【ゴルフコースの評価基準】
ゴルフコースを評価する「7つ」の項目がある。①ショットバリュー、②難易度、③デザイン・バランス、④ホールの印象、⑤景観の美しさ、⑥コンディション、⑦伝統・雰囲気。この7項目は米国ゴルフダイジェスト、ゴルフマガジンが発表するランキングの評価基準にもなっている。当コラム【伝説の名勝負。ヒーローの足跡】は、このコースでどのような「歴史」が作られ、「公式競技」を開催したかを掘り起こすことで、「伝統と雰囲気」をみるものです。
中部銀次郎(なかべぎんじろう)1942年-2001年。甲南大学在学中から頭角を現し、学生タイトルはすべてとった。卒業後もアマの第一人者として、日本アマ6回を含む、アマのタイトルもすべて奪取。プロが混じった試合(西日本サーキット)でさえ優勝。当時、日新タンカー専務。
「終わったね、これで・・・」
最終ホールのティショットを打ち終えて、中部銀次郎は誰に言うでもなく、そう呟いた。
小走りにティグラウンドを駆け降りて、フェアウェイに向かって行く。ボールは、この日の午前のラウンドと、ほぼ同じポジションに飛んで行った。違いは午前の地点より10メートルほど先に落ちていることだ。
第2打を3番アイアンで打ちピン右手前から5メートルを2パット。
中部銀次郎は、21回目の出場となる「日本アマチュア選手権」を通算303ストローク、30位タイで、終了した。
9月13日。茨木カンツリークラブで行われたこの大会の最終日に、様々な想いをめぐらせてラウンドしていたのかもしれない――。
ちょうど24年前。1960年の大会が、中部にとっては初出場となる。当時18歳。しかし、彼の強さは日本中に知れ渡っていた。
以後、中部は21回この大会に出たことになる。70~73年の3年間、ブランクがあるだけだ。
優勝は、6回。当たり前のことだが、これを破る人間も、追ってくる人間も、誰もいない。
「1年に一度。同じ大会に何度も勝つというのは、難しいことなんですよ。でも、それを繰り返すことで、自分のゴルフが確立できたのだと思う」
勝率は、2割8分6厘。最初の10年間では5割の計算になる。アマチュアとして獲ったタイトルが、いくつになるのか自分でもはっきり覚えていない。
伝説的に伝わっている中で、かつてプロゴルファーが、彼のゴルフ、プレーを隠れて見に行ったというのもある。
そして、彼は、きっと最後のアマチュアらしいアマチュア選手。誰もが、そう評価しているのだ。
試合に出る緊張感って、素晴らしいもの…
今年の日本アマチュア選手権が始まる前に、「今年が、最後の出場になるかもしれないね」と、言ったという。
今年で42歳。そして「試合」は、この日本アマの1試合だけしか、この10年近く出ていない。
仕事、つまり日新タンカーの専務をしている関係上、多忙ということもあるし、すでに競技中心で何試合かを費やすという魅力は、彼の頭にない。
「ゴルフが好きだし、まだまだ追求して行きたいと思う。そういう姿勢を持てるのが、本来のアマチュアだと思う」
「いまは、スコアがよければそれでいい。強ければ、すべてがその裏にかくされて、強さだけが目立っている」
「本来、ゴルフの楽しさというのは、そんなものだけじゃないと思うんだ。アマチュアとしての姿勢は、技術を磨くということと同時に人間性、知性、教養、つまり一般社会に通用する人間でなければいけないと思う」
「その上で技を競うところに、アマチュアらしさというのがある。だってそうでしょう。名誉だけなんだから…」
彼の口グセである。
初日の10番スタートのとき、「恐くて、仕方なかった」という。
百戦錬磨の中部が、素直にいった。
「いつもそうだけど、自分を問われるのがゴルフでしょう。あるがままの。いまの自分がどの程度であるかも知っているし、勝つためには、何を、どこまでやらなくてはいけないとうことも、十分知っているわけです」
「素直な気持ちで聞いて欲しいんですけど、こうして一年に1回、日本アマだけに出ているのは、自分と、自分のゴルフに対しての、引き締めだと思う。やはり、試合に出る緊張感って、素晴らしいもの…」
初日、76。2日目は、78。中部の技術の底の深さ、技量を知っている者は、「信じられないゴルフ」だというほど、いつもと違うゴルフを見せた。
「これも僕なんですよ。普段、やっぱり甘いゴルフをしていることが、いざという時に出てしまうんですね」
「切り返しがきかない。つまり、気持ちの切り換えがにぶるんです。ボギーを叩くと、あるいは、ミスショットすると、それからスイッチがすぐできない」
「2日目のラウンドは、その典型。試合から遠ざかっているがゆえの、ラウンドです」
全長6417メートル。パー72(茨木CC・西C)。距離は、タップリとある。特に、ミドルホールが長い。ロングアイアンやフェアウェイウッドを使うミドルがかなりある。飛ばし屋には、有利。
日本アマは、かつてマッチプレーで行われた。中部の優勝のいくつかは、マッチである。
「マッチプレーが少なくなっているということで、勝負に対するフィーリングが昔と変わっていますね、いまの選手は。試合で戦っているときは、もっと勝負にこだわったし、いい意味でライバル意識が強かったような気がする」
3ラウンド目。つまり3日目の午前、彼は2オーバーの74で回った。ここでは、中部らしいゴルフが随所で見ることができた。それを遂一説明したいがここでは、はぶく。むしろ、彼の姿勢を伝えることで、それを感じられると思うからだ。
「いつもゴルフから教わることばかりだった。技を磨くということは、同時に、自分を磨くということだ教わった」
例えば、…らしき行為。つまり紛らわしき行為だ。ラフにボールが入る。素振りする。それは、ボールがあるそのすぐそばでやる。これは紛らわしい行為だと中部は、いまでも思っている。
「やっぱりゴルフは、すがすがしいほどフェアでやってこそ、素晴らしさが出ると思うんです。だから、相手が“あれっ”と首をかしげたくなるようなことは、やるべきではないんです」
ボールがラフに入ったら、中部は絶対に、ソールを地面につけない。ライの改善…らしき行為といわれても文句のつけようのないことをしないためでもある。
「つまり、私がそういう中で育って来たからなんでしょう。でも、絶対、そうありたいと思いますね」
いつも小気味いいラウンドである。試合でも変わらない。
最終ラウンドを前にして、中部は、12オーバー。
「もうあとがないね」
目標は、まず20位以内であった。理由は、1年に一度の切符を手に入れられるからだ。20位以内に入ると自動的に来年の出場資格が得られる。
一応、そのスコアを(4ラウンド合計)「300」と見ていた。つまり、最終ラウンドをパープレーで回る必要があったのだ。
インから出て、ハーフで1オーバー。アウトでひとつ縮めたい。バーディチャンスのホールがすぐあった。が、入らず。それを何度か繰り返して、ついに6番でダブルボギー。
「もう、引退ですか?」そう聞くと…
ホールアウトしてクラブハウスに向かう中部は、それでもすがすがしい顔をしていた。
「いまの自分が全部出せた4ラウンドだと思う。80点ですよ。いい面もいくつもあった。悪い面もいくつもあった。ただ残念なことに、4ストローク、多かったということでしょう」
20位以内をこだわるのは、どうしても来年も出場したいと熱望しているからではない。
ただ、そういう切符を持っていることで、へんな表現をすれば、また1年楽しめるのである。
「できればね、こういう緊張感は45、46歳ぐらいまであってもいいなって思うんです」
そのための切符だったのだろう。勝負を競う、戦っていくためのゴルフ。本来の、姿勢の中で、楽しむゴルフ。そこの間に何らかの差があるとしたら、
「繰り返しのきかないところでしょう、試合でのゴルフは。その緊張感は、説明できないけどやっぱり、いいものですよ」
「これで、終わったね」
中部の咳きに、応援に来た人は、ある種の感傷を覚えたに違いない。
「ほんとうの、ピュアなアマチュアがいなくなったもの…」
これも彼の口グセだ。
今では、プロ予備軍の傾向の強いアマ界である。もし、このまま中部銀次郎が、公式戦に顔を出さなくなったら、我々は、ピュアなアマチュアを何処で見たらいいのだろう。
「銀ベエ」
仲の良い人々は、中部をそう呼んでいる。茨木のキャディさんは、16年前にここで中部が、華麗な姿で活躍したことを今でも覚えているという。
「ちょっぴり白いものが髪に増えたけど、変わらないわね。ゴルフも、あの姿も…」
試合は長田敬市と阪田哲男のプレーオフとなった。6ホール続いた。中部は、それをずっと見て歩いていた。
幾度か、自分の過去とオーバーラップさせるシーンを想い浮かべていたのかもしれない。
「もう、引退ですか?」
そう聞くと、
「アマチュアには、引退という言葉は、ないんだよ」
と答えが返ってきた。
第一線を退くことがあっても、確かに、アマチュアは、アマチュアのままである。
残念なことに、来年の日本アマチュア選手権では、彼の姿を見ることができない。
文・三田村昌鳳
週刊ゴルフダイジェスト1984年10月3日号
編集部注/中部銀次郎さんの日本アマ引退は、3大会後の1987年浜松シーサイド(13位タイ)だった。距離を目測でプレーする中部が、8番アイアンでグリーンをオーバーさせたことで、引退を考えたという話が残っている。
茨木カンツリー倶楽部
大阪府茨木市大字中穂積25番地
TEL072‐625‐1661
コースタイプ/丘陵コース
グリーン/ベントの1グリーン
会員権/社団法人制で譲渡不可
東コース/6765ヤード/パー72
コースレート73.2/スロープレート142
設計/ダビッド・フード
改造/C・H・アリソン
開場/1925年
西コース/7407ヤード/パー72
コースレート76.1/スロープレート138
設計/井上誠一
改造/リース・ジョーンズ
開場/1961年
公式ホームページはこちら
現在の茨木カンツリークラブ