大正11年。阪神間の日本人ゴルファーは50人、それも神戸財界中心、大阪には、ゴルフ場一つない。二人は、「よし、デッカイ庭園でも造ってみるか」と手を握る。計画は───、
①関西初の18ホールのコース
②建設地は大阪近郊
③土地は倶楽部の所有地とする
④建設資金は50万円
というもの。「借地はしない」。
![画像: 1番ホール/355㍎/パー4 打ち下ろしているがフェアウェイには傾斜がありボールの落下地点によっては難しいショットになる。2打地点から見えないがグリーン右手前には池がある](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/06/18/9e089a0f76c3c5efcdb2937b5721a6d98458379a_xlarge.jpg)
1番ホール/355㍎/パー4 打ち下ろしているがフェアウェイには傾斜がありボールの落下地点によっては難しいショットになる。2打地点から見えないがグリーン右手前には池がある
関西では、舞子も鳴尾も、借地ゆえにすべて廃止になっていた。それが教訓だった。
大正12年2月、茨木郊外の11万坪、現在地が決まる。しかし予算不足。考えたのが土地組合案だ。出資者を募り集めた資金で土地を買収、残りの土地を出資者に配分する案だった。折からの地価高騰で成功する。
![画像: 5番ホール/494㍎/パー5 ティからグリーンまで緩い打ち下ろし。グリーン右には池があり、左寄りから攻めたい](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/06/18/d82f6a1f17f30000082dad415620cfb14f5bdfdf_xlarge.jpg)
5番ホール/494㍎/パー5 ティからグリーンまで緩い打ち下ろし。グリーン右には池があり、左寄りから攻めたい
工事はすべて人力とし、水田の上に土をかぶせフェアウェイとした
大正12年12月13日社団法人茨木カンツリー倶楽部認可。大正13年1月4日コース着工。設計は、駒沢の臨時レッスンプロだった英国人ダビッド・フードを程ヶ谷CCの現場監督だった峯大刀造が助けた。工事はすべて人力。谷間の水田の上に土をかぶせてフェアウェイとした。
![画像: オープン当初の2番ホール(左)はアリソンの勧告によってかなり改善された(右)](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/06/18/356bb3b28c25520fcf6dea37e83b392d4efff5d7_xlarge.jpg)
オープン当初の2番ホール(左)はアリソンの勧告によってかなり改善された(右)
![画像: 改造後](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/06/18/432d4437345f3bb339bd0cf8ae645c98a69d4d1d_xlarge.jpg)
改造後
昭和5年12月、英国の巨匠C・H・アリソンが来訪、改造を勧告。彼が1ラウンドした日本のコースは、ここだけ。昭和36年9月井上誠一設計の西コースが開場、フラッグシップは移る。
茨木カンツリー倶楽部
開場日:大正14年5月10日
コース:18H/6751Y/P72(東)
18H/7407Y/P72(西)
設計:ダビット・フード(東)、井上誠一(西)
西コースは平成23年に元設計回帰とワングリーン化思想をもとにリース・ジョーンズ氏がコース改造
大阪府茨木市大字中穂積25 ☎072-625-1661
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)