世には様々なレッスンや教えがあふれている。だが、それ故にゴルファーは迷い、壁にぶつかる。そんなとき、拠り所となるのは基本。誰もが認める美しいスウィングの持ち主であり、誰よりもファンダメンタルを大切にするプロ、湯原信光。半生を振り返りながら語るゴルフの基本。今週の通勤GDは「迷ったとき、ユハラに帰れ!」の第1回

【通勤GD】
通勤GDとは‟通勤ゴルフダイジェスト”の略。世のサラリーマンゴルファーをシングルに導くために、月曜日から金曜日(土曜日)までの夕方に配信する上達企画。帰りの電車内で、もしくは翌朝の通勤中、スコアアップのヒントを見つけてください。

【湯原信光プロ】
ツアー7勝、シニアツアー1勝の日本を代表するショットメーカー。とくにアイアンショットの切れ味は、右に出るものはないと言われた。現在は東京国際大学ゴルフ部の監督も務め、後進の指導にも力を注いでいる。

GD 小学校1年生からクラブを握っていた湯原プロ。最初は感覚だけでスウィングしていたと思いますが、一番注意を払っていた技術的な部分について覚えていることはありますか?

湯原 ほとんど覚えていませんが、父から「ゴルフをするならゴルフの勉強をしなさい」と陳清波さんのレッスン書を渡されたことを覚えています。

GD 小学校1年でも読めたんですか?

湯原 ええ、読めましたよ。それで陳さんがベン・ホーガンという人を参考にしていたことを知って、ホーガンの「モダンゴルフ」も買ってもらいました。イラストで筋肉がリアルに描いてあり、スウィングの解析が凄かった、表現の仕方が面白かったです。それで父に質問していたんです。「これはどうしてなの?」と。父は工学博士だったので、きちんと理論立てて教えてくれました。

GD では、実際のゴルフもお父さんから?

湯原 いえ、自ら手ほどきはしないで、最初は、北沢ゴルフの飯田正三プロに「グリップはこうやって持ちなさい」と教わって。2箱打って、ジュース飲んで帰るんです。それから少したって、陳清波さんに出会いました。

GD (湯原プロがもっとも影響を受けたというプロ)陳清波さんとの出会いについて教えてください。

湯原 小学1年か2年の時です。陳さんが久我山の練習場で毎週土曜に無料レッスン会をやっていて。学校が終わると自転車で飛んでいくんですけど、先着10人なのでなかなか受けられなくてね。それでも2回ぐらい間に合って教えていただきました。レッスンは12球限定でしたが、打席の前の芝生から打つデモンストレーションがあって、そのボールの飛びを見て、「これは本物だ! 」と思いました。父を含めて、練習場で打っている人の飛び方と全く違うんですから。それまでは写真でしか見たことがありませんでしたから、感動しました。

GD 小学校低学年で、陳清波プロにベン・ホーガンと、かなりベーシックというかオーソドックスなスウィング理論に触れていたんですね。よく湯原プロは「人体の構造上、そういう動きはあり得ない」とか「必然的にこう動く」とか、そういう表現をしますけど、すでにこの時代から刷り込まれた知識なんですね。

画像: ホーガンに少しでも近づくには、グリップからスタート

ホーガンに少しでも近づくには、グリップからスタート

湯原 そこまでは考えていませんでしたよ。小学生ですからね。一生懸命真似しようとしていただけでした。それに、子供ですから、ゴルフだけじゃなくて、友達と遊ぶのも面白かったですからね。小学4年のときに、箱根からリゾートコースなんですが、30台が出たんですよ。それで満足しちゃったのか、少しゴルフの熱が冷めてしまったんです。

GD 小学4年で30台はすごい。

湯原 あまり距離のないコースでフロントからでしたけどね。あの頃は飛んで200ヤードぐらいでも何度もパーオンしたし、グリーン近くまで行くホールもありましたからね。よく行っていた紫CCすみれコースだと、コースレートが74.5ぐらいありましたから、そこで45を切ると30台で回った感じもしていました。私はゴルフを始めた時から、1度も空振りをした記憶がないんですよ。それに、ビギナーの多くがスライスに悩まされるのに、それもなかった。だから、ボールは真っすぐ飛ぶものだと思ってました。大きくなって力がついてきてからフックで困ったことはありましたけど。

GD 曲がらないで200ヤード飛べば、短いコースなら30台は出ますね。しかし、当時はパーシモンの時代で、初心者は必ずと言っていいほど、まずはスライス矯正が課題だったのに、どうしてでしょうう? 陳清波プロとベン・ホーガンのお陰でしょうか。で、再びゴルフに取り組もうと思ったのは?

湯原 小学6年のときに、たまたま同じ練習場に通っていた年上の子に「こんな試合があるよ」と日本ジュニア選手権という試合を教えてもらって、また火が付いたんです。本格的にゴルフに取り組み始めたのは中学1年。オーダーメイドのクラブを作ってもらって、それが私が使った子供用クラブの最後でした。中学2年になると体も大きくなり、父親のクラブを使うようになりました。

GD 中学3年のとき、日本ジュニアであわや優勝というプレーをしたそうですね。

湯原 最終ホールで雨が降ってきて、当時は革巻きのグリップでしたから、つるって滑って左へ曲げてボギー。内藤正幸さん(81年日本アマ優勝)に1打差で負けてしまったんです。これが悔しかった。

画像: ジュニア時代を振り返る湯原

ジュニア時代を振り返る湯原

ホーガンも悩んでいた。それが励みになった

GD あの頃の日本ジュニアは中学・高校という区分けではなく、中学1年から高校3年まで6学年が一緒になっていました。中学3年で2位は大金星じゃないですか。

湯原 それでも悔しくて、左に曲がらないスウィングにしようと、グリップを直し始めたんです。

GD 左へミスするのはグリップに原因があると。どんなグリップだったんですか?

湯原 どういうわけか、子供のころはインターロッキングで、かなりのフックグリップだったんです。スクェアグリップに直そうと考えました。体が大きくなって力もついてきたこともフックする要因だったはずです。

GD 当時は、手が小さい人はインターロッキングが向いているというのが定説でしたからね。ジャック・ニクラスが「なぜインターロッキングにしているのか」質問されたときに、「自分は手が小さいからだ」と答えたのが定説の始まりだった気がします。

画像: 子供のころはインターロッキングのフックグリップ。中学3年でオーバーラッピングでスクェアなグリップへ改造に取り組み始めた

子供のころはインターロッキングのフックグリップ。中学3年でオーバーラッピングでスクェアなグリップへ改造に取り組み始めた

湯原 確かにそういうイメージはありましたね。実際のところ、インターロッキングはタイガーや遼くんもそうですけど、パワーがある人が採用していますし、もし非力ならテンフィンガーが一番力を入れやすいですからね。

GD 手本はやはりベン・ホーガンですか?

湯原 そうです。ホーガンもストロンググリップでフックボールに悩まされた時期があって、直すためにすごい努力をしたと聞いていたので、「それじゃあ僕と同じ苦労しているんだ」と。まずは、グリップからホーガンに近づこうと思ったんです。

画像: ホーガンも悩んでいた。それが励みになった

GD ジュニアのゴルフから大人のゴルフへの転換期でもあったわけですね。次回は、そのあたりをもっと詳しく聞かせてください。

2013年週刊GDより

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