日銀ロンドン支店でゴルフを覚えた君島は、昭和2年日銀函館支店長に着任してからは、函館柏野で暇を見つけてはボールを打ち、人を雇ってキャディとし、遂には、ティやグリーンを設定してひとりだけのコースを造った。それを見て、ニューヨークでゴルフ倶楽部に入会していた経験もある青年紳士・平野信男が訪ねてきた。まずふたりだけの「ゴルフ倶楽部」を設立。目をつけたのが競馬場柵内の広場だった。

コースのレイアウトは平野の米国知識に頼り、君島は地元財界を口説き回った。ティとグリーンの芝は横浜から移入、6ホール・1860㍎・パー24のコースが完成。

3回回って18ホール・5580㍎・パー72の勘定だ。昭和2年11月3日、会員15名の函館ゴルフ倶楽部を設立、11月13日開場。

画像: 5番ホール/370㍎/パー4 ホールのどの場所からも函館山を眺望できる。ティショットはフェアウェイ右寄りを狙い、グリーンは手前から攻めるのがベスト

5番ホール/370㍎/パー4 ホールのどの場所からも函館山を眺望できる。ティショットはフェアウェイ右寄りを狙い、グリーンは手前から攻めるのがベスト

しかし競馬場のゴルフでは、競馬開催日はプレー禁止、馬の調教中はクラブを握れないなど不便もあり、昭和11年9月6日、湯の川温泉を見下ろす上野高台9万2000坪を使って、9ホール・3100㍎・パー36が完成した。

設計は第一人者・赤星四郎。遠く函館山を見晴るかす高台の変化も程よいコースで「見晴コース」と呼ばれた。しかし12月8日太平洋戦争が勃発、暗転する。

画像: 6番ホール/416㍎/パー4 函館山に向かって打ち下ろすホール。狙いはフェアウェイの左寄り

6番ホール/416㍎/パー4 函館山に向かって打ち下ろすホール。狙いはフェアウェイの左寄り

2度にわたる赤星四郎の設計で再建

昭和19年には、国粋主義運動の翼賛会青年団がコース内に強制入耕する事件もあり休場。コースの一部は市に寄付、一部は会員に有料分譲。但し、再開時買戻し特約をつけた。

昭和20年8月15日敗戦。昭和22年占領軍命令で函館市は、米軍兵士のため、現在の1、8、9番ホール付近に3ホール造成した。しかし講和条約の発効で、占領軍の姿は消える。

昭和39年7月、函館ゴルフ倶楽部は、函館市から公園用地を借り受け、会員からの買戻しも併せて、戦後初の第二次見晴コースを再建。設計は再び赤星四郎だった。

函館ゴルフ倶楽部
開場日:昭和2年11月13日
コース:9H/3171Y/P36
設計:赤星四郎
北海道函館市見晴町58 ☎0138-59-2318

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