ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
中心に「浦霞」醸造元佐浦菊次郎がいた。昭和8年、グループは、塩釜上の原の松島を見下ろす海岸に本格的な18ホールを計画、設計を赤星四郎に依頼する。
![画像: 5番ホール/308㍎/パー4打ち下ろしで、ホール全体はローリングしている。フェアウェイ中央の松を避けてグリーンを狙いたい](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/04/be758551c70a45a13ea5de7264cd4582c6e95509_xlarge.jpg)
5番ホール/308㍎/パー4打ち下ろしで、ホール全体はローリングしている。フェアウェイ中央の松を避けてグリーンを狙いたい
赤松を伐ればすぐにもコースになりそうな地形で、赤星は「ヒリーでなくフラットでなく、感じは廣野のカミングインの水のないところ」と評している。
まったくの手造りで工事は意外に手間取り、昭和10年10月1日6ホールで、前身の仙台カントリー倶楽部が開場。東北初、芝のグリーンをもつゴルフ場だった。
芋畑を免れ、米軍が復活を後押し
大いに賑わったが、昭和19年10月、軍事養成所食糧増産所の名目で国が買収、解散。しかし芋畑になる前に終戦。コースは荒れずに済んだ。復活は米軍がもたらした。
昭和21年多賀城駐屯米軍のレクリエーション施設に接収され、コース復旧に佐浦菊次郎が協力を求められた。米軍は、残り3ホールを造成、カマボコ兵舎のクラブハウスを造った。
![画像: 大きく育った松が、上空のハザードとなる](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/05/114fef99f217488560daa5ff6081e36ea78d4afd_xlarge.jpg)
大きく育った松が、上空のハザードとなる
![画像: 倶楽部の方針は「歩きゴルフ」。乗用カートはなく、バッグ運搬専用カート](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/05/11cf22642bb3342720f472bb31b219370478049c_xlarge.jpg)
倶楽部の方針は「歩きゴルフ」。乗用カートはなく、バッグ運搬専用カート
![画像: クラブハウスの入口。立派な赤松に囲まれた佇まい](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/05/0ebc8ec1fa3baa6694764457dd6dbcb082eb311e_xlarge.jpg)
クラブハウスの入口。立派な赤松に囲まれた佇まい
![画像: 戦後間もない頃の9番ホール。グリーン周辺はほぼフラット、奥を数本の木がガード](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/04/f8f4f3dc2c15749647473806aabb48b5495af655_xlarge.jpg)
戦後間もない頃の9番ホール。グリーン周辺はほぼフラット、奥を数本の木がガード
![画像: 開場まもない次期のクラブハウス](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2018/09/04/a4899cae4c420e7af2a7604a3b848057bff92339_xlarge.jpg)
開場まもない次期のクラブハウス
昭和27年、講和条約成立とともに接収解除。同時に佐浦は仙塩ゴルフを設立、コースをウラカスミコースとした。その後も米軍の来場は続き、クラブチャンピオンは第1回から5回まで米軍将校で占められている。
【仙塩ゴルフ倶楽部浦霞コース】
開場日/昭和10年10月1日
コース/9H/2889Y/P36
設計/赤星四郎
宮城県塩釜市庚塚1
☎022-364-3321
公式ホームページはこちら
取材・文/田野辺薫
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
![画像: golfdigest-play.jp](https://d1uzk9o9cg136f.cloudfront.net/f/16783386/rc/2019/06/07/f0ab77715d2e5a6a8dcfd6b2b60c7a628596e8ce.png)