関西では、大阪ゴルフクラブといわず「淡輪(たんのわ)」と愛称でいう。戦前は、淡輪深日コースといった。所在地は大阪府泉南郡岬町深日31。深日町、淡輪村他2村が合併し岬町に。深日は地名で残り、淡輪は愛称で残った。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

大阪ゴルフクラブ『50年のあゆみ』では、「シーサイドコースは東に熱海の川奈ホテルコース、西に淡輪ありだ」と川奈との丈くらべをしている。

画像: 14番/145㍎/パー3 海風の影響を受ける。ボールが左に出やすい傾向がある

14番/145㍎/パー3 海風の影響を受ける。ボールが左に出やすい傾向がある

画像: 7番ホール/396㍎/パー4 2打目は海風を計算に入れること

7番ホール/396㍎/パー4 2打目は海風を計算に入れること

川奈には相模湾、淡輪には大阪湾の蒼い海原がある。設計は川奈がC・H・アリソン、淡輪は“アリソンの子”上田治。彼は、京都大学在学中から廣野GCの建設に従事、アリソンの影響を受けている。

昭和12年9ホールで始まる。翌13年18ホール拡張のとき、英国から帰朝の上田が設計を担当。上田
は、昭和11年のベルリン五輪に水泳審判員として参加した後、JGA委嘱で英、欧州のグリーンを視察、帰国したばかりだった。

公園の緑地帯として残された、大阪ゴルフクラブだった

昭和12年誕生の頃の淡輪は、大阪湾の喉元を守る由良要塞の中にあった。松の伐採、写真撮影にも軍の許可が必要で、古い写真、地図には「和歌山憲兵隊」「由良要塞司令部」の検閲印が残る。

戦雲急で、昭和19年陸軍が接収、ゴルフ場閉鎖。淡輪の不運は、敗戦後も用地が大阪府、農林省と転々、再建が遅れたことだ。昭和27年、淡輪村議会、深日町議会が再建決議して9ホール復活。

画像: 公園の緑地帯として残された、大阪ゴルフクラブだった

翌28年18ホール。岬町みさき公園条例によるみさき公園ゴルフ場として正式認可されたのは終戦から13年後の昭和33年11月のことだった。

クラブ側が、コース施設を岬町に寄付、公園の緑地帯としてゴルフ場を残し、大阪ゴルフクラブのプレー権を確保するという苦渋の選択だった。

大阪ゴルフクラブ
開場日:昭和12年10月14日
コース:18H/6402Y/P72
設計:上田治、松山桂司
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取材・文/田野辺薫

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

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画像: golfdigest-play.jp
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