ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
とはい実現はまだ先である。昭和29年10月、土木建築工事の調査設計が目的の東京工務㈱を設立。昭和32年10月、馬場は、社名を東観光開発㈱として、営業目的をゴルフ場の建設と経営に変更して、高坂CCの建設に着手する。
川崎国際CC理事長・平山孝に用地調査を依頼、平山は川崎国際CCのグリーンキーパー、コース設計を始めていた富澤誠造を伴って現地に入る。富澤は「砂利の山だ」と診断した。
強い粘土質の土に小砂利が混入してコンクリートのように硬い表層だった。だがゴルフ場にならないことはないと馬場は考えた。
しかし、個人でやれる計画ではない。昭和33年10月鹿島建設の支援で50万円を200万円に増資、平山孝会長、馬場専務、鹿島建設から役員4人が入った。
鉄道線路のように狭く、雑草のフェアウェイだった開業当初
11月9日に、管理棟を仮ハウスに5ホールの仮営業を開始、翌年7月ようやく18ホールが揃った。だが、鉄道線路のように狭いと言われたフェアウェイには雑草が生え、とてもプレーできるコースではなかった、との声も多かった。
それでも事業は先へ展開する。昭和35年1月高坂カントリークラブが平山孝理事長で発足。3月には岩殿コース(イン)に着工、10月完成、27ホール営業を開始する。問題は資金である。
高坂CCが、賽の河原、うなぎの寝床から蘇生するのは、昭和37年、経営権が馬場から鹿島建設に継承されたことがきっかけ。
資本金は大幅増資され、岩殿コースのアウト造成、クラブハウス大改修、米山コース大改造が一気に加速した。
昭和39 年1月理事長に、住友銀行頭取・堀田庄三が就任している。コンクリートのフェアウェイが緑のカーペットに変わった頃の昭和48年に始まったフジサンケイクラシックのTV放映で、その名は一躍全国区にランクアップした。
高坂カントリークラブ
埼玉県東松山市高坂1916‐1 ☎0493-34-3311
開場日:昭和33年11月9日
コース:18H/6773Y/P72(米山)
18H/6536Y/P72(岩殿)
設計:富澤誠造(米山)、東観光開発(岩殿)
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美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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