「青梅ゴルフ倶楽部」の前史は、まるで「三国志」である。つわものたちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。その中心は戦争が終わって引き揚げて来た満州人脈。満州で歯医者だった殿岡栄は、満州時代の仲間で「アンゴラウサギ」の飼育組合をやっていた広瀬五郎を介して、青梅で、あるゴルフ場計画に出会う。「東青梅霞丘陵」の市有地を中心に36ホールを造る話しだった。青梅市も公文書で地主を説得するほど積極的だった。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

昭和32年7月、株式会社青梅ゴルフ倶楽部を設立。役員は満州人脈で固まっていった。元満鉄副総裁で参議院議員平島敏夫を代表(後に理事長)に迎える。第一次募集は300名募集に600名が応募、順調だった。

画像: (東)3番ホール/386㍎/パー4(東) 右バンカーの左がベスト。右に曲げるとパーオンは難しい

(東)3番ホール/386㍎/パー4(東) 右バンカーの左がベスト。右に曲げるとパーオンは難しい

しかし、殿岡ら満州人脈の役員は、実はまったくのゴルフ知らず。ゴルフを金集めの手段と考えていたところに、青梅ゴルフ倶楽部の不幸が始まった。

設計の清木一男は、元満州電元社の専務。飯野海運ロンドン支店長時代にゴルフに習熟、「鷹之台カンツリー倶楽部」の前身、戦前の「鷹之台ゴルフ倶楽部」を設計している。

昭和32年、殿岡らに現地を案内された清木は「谷が30ヵ所あり、起伏も甚だしい。ゴルフ場には無理だ」と助言するが、「大金を投じてもやる」と強行する。ゴルフ場で初めてブルドーザーが導入さ
れ話題にもなった。

倶楽部「民主主義」の徹底

昭和33年11月15日にクラブハウスが完成、翌16日アウトの9ホールで仮開場。6ヵ月遅れてイン9ホール、34年11月に北コースの9ホールも完成、27ホールとなった。この頃から、経営の乱脈が露顕、35年2月、殿岡社長ら4名が辞任した。

危機を救ったのは、臨時株主総会で社長となった佐藤敏雄だった。ゴルフ場に近い、東青梅駅前に電流絶縁体工場を経営する日本ケミカルコンデンサー(現、日本ケミコン)社長である。

佐藤は、自分の社業は部下に任せ、毎日長靴を履いてコースに入り「半日は草取り、半日は石拾い」で従業員を励ました。

昭和36年、クラブハウス競売を受けたときは、私財を提供して難を免れている。その後、佐藤の志が継がれて、倶楽部「民主主義」の徹底が図られた。

画像: (東)9番ホール/372㍎/パー4  2打目はやや打ち上げ、グリーン面が見えず距離感がつかみにくいホール

(東)9番ホール/372㍎/パー4 2打目はやや打ち上げ、グリーン面が見えず距離感がつかみにくいホール

画像: (中)6番ホール/336㍎/パー4 距離は短いが、グリーンが斜めに置かれて2打目の距離感が難しい

(中)6番ホール/336㍎/パー4 距離は短いが、グリーンが斜めに置かれて2打目の距離感が難しい

青梅ゴルフ倶楽部
東京都青梅市根ヶ布1-490 ☎0428‐22‐0261
開場日:昭和33年11月16日
コース:9H/3389Y/P36
    9H/3400Y/P36
    9H/3254Y/P36
設計:清木一男
公式ホームページはコチラ

取材・文/田野辺薫

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