ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
昭和32年7月、株式会社青梅ゴルフ倶楽部を設立。役員は満州人脈で固まっていった。元満鉄副総裁で参議院議員平島敏夫を代表(後に理事長)に迎える。第一次募集は300名募集に600名が応募、順調だった。
しかし、殿岡ら満州人脈の役員は、実はまったくのゴルフ知らず。ゴルフを金集めの手段と考えていたところに、青梅ゴルフ倶楽部の不幸が始まった。
設計の清木一男は、元満州電元社の専務。飯野海運ロンドン支店長時代にゴルフに習熟、「鷹之台カンツリー倶楽部」の前身、戦前の「鷹之台ゴルフ倶楽部」を設計している。
昭和32年、殿岡らに現地を案内された清木は「谷が30ヵ所あり、起伏も甚だしい。ゴルフ場には無理だ」と助言するが、「大金を投じてもやる」と強行する。ゴルフ場で初めてブルドーザーが導入さ
れ話題にもなった。
倶楽部「民主主義」の徹底
昭和33年11月15日にクラブハウスが完成、翌16日アウトの9ホールで仮開場。6ヵ月遅れてイン9ホール、34年11月に北コースの9ホールも完成、27ホールとなった。この頃から、経営の乱脈が露顕、35年2月、殿岡社長ら4名が辞任した。
危機を救ったのは、臨時株主総会で社長となった佐藤敏雄だった。ゴルフ場に近い、東青梅駅前に電流絶縁体工場を経営する日本ケミカルコンデンサー(現、日本ケミコン)社長である。
佐藤は、自分の社業は部下に任せ、毎日長靴を履いてコースに入り「半日は草取り、半日は石拾い」で従業員を励ました。
昭和36年、クラブハウス競売を受けたときは、私財を提供して難を免れている。その後、佐藤の志が継がれて、倶楽部「民主主義」の徹底が図られた。
青梅ゴルフ倶楽部
東京都青梅市根ヶ布1-490 ☎0428‐22‐0261
開場日:昭和33年11月16日
コース:9H/3389Y/P36
9H/3400Y/P36
9H/3254Y/P36
設計:清木一男
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取材・文/田野辺薫
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
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