ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
関西ゴルフ史の大衆化は、淀川の河川敷コースによって拓かれた。中でも枚方大橋北詰に広がる「高槻ゴルフ倶楽部」はユニーク。「プライベートクラブよりもクラブライフを大切にしよう」を謳ったセミパブリックだった。
終戦後、大阪で油脂関係の事業を始めた創業者・佐藤長成は、一等地淀屋橋の住友本社近くに、「娯楽センターナニワヤ」を開業する。上顧客の住友マンに誘われて「大阪ゴルフクラブ淡輪コース」でゴルフを楽しむが、そこは普通のサラリーマンには高嶺の華、もっと安くプレーできるゴルフはないか、と考えた。
折から淀川にふたつのパブリックが開場する。刺激されて、佐藤が企画した事業が、5万円で入会できるセミパブリック「高槻ゴルフ倶楽部」だった。
伊勢湾台風でコースは冠水、グリーンは流失
場所は、淀川右岸枚方大橋北詰下流の河川敷。京都から25分、大阪へ20分、地名は今は大阪府高槻市、かつては摂津郡国嶋上郷。
「高槻」の由来には諸説があるが、月が槻(つきの木、ケヤキ)に転訛したものか。南北には京都伏見と大阪を結ぶ水運、東西には対岸の枚方・出口と渡し船で北摂と北河内と結ぶ陸路の中継地として大いに栄えた。
昭和34年6月7日、18ホール・5450㍎・パー70を本開場。コース設計施工は、阪下建設の阪下広三郎、好村順一。開場直後の9月、近畿地方に死者5000人を出した伊勢湾台風に見舞われてコースが冠水、ほとんどのグリーンを流失する不運もあった。
冠水との戦いは、河川敷コースの宿命だが「高槻GC」は、建設省の河道改修計画にも悩まされた。開場時には、枚方大橋の下流に造った18ホールが昭和39年には、大橋の上流に9ホール、下流に9ホールと分断され、48年には再び下流に18ホールへと戻され、コース側は忙しく奔走した。
落ち着くのは、上流にダムが建設されてから。昭和も終わろうとしていた。昭和54年、倶楽部の運営スタイルが、セミパブリックから完全なパブリックに転換する。
高槻ゴルフ倶楽部
大阪府高槻市大塚町4‐18‐1 ☎072-671-0300
開場日:昭和34年6月7日
コース:18H/5422Y/P70
設計:阪下広三郎、好村順一、Y´s Contour Magic
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美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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