ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
雲仙ゴルフ場があった長崎県では、「雲仙は遠い」といった声が増え、昭和30年、郊外の福田に長崎カンツリー倶楽部ができた。それが刺激となって「佐世保にもゴルフ場を造ろう」となった。
先頭に立ってやれやれと旗を振ったのが、若干31歳、西肥バス社長の中村弘海。親和銀行頭取・牧謙一(初代理事長)らゴルフ好きが助けた。
昭和32年3月1日、「㈱佐世保カントリー倶楽部」を設立(資本金1800万円、社長・中村弘海)した。それより前の昭和31年12月14日すでに着工、という手際のよさだったが、付け加えれば、そこはすべて市有林だった。
着工前、用地の候補は、「烏帽子と知見寺の2つがあったが、より協力的な知見寺を選んだ」と50周年誌座談会にある。だが本音はそこが市有林であったから。創設時9ホールの全域が市有林だった。
「資金は西肥バス、土地と技術は佐世保市が出す」といわれたほど、市の後援は絶大だった。辻一三市長は、退任後2代目理事長につく。
設計者も、設計図もなかった
巨岩をダイナマイトで破砕、さらに鉄棒で砕き、リヤカー150台で運んだ。毎日の出面簿には200名の名前が残っている。
最初の9ホールは、設計者もなく設計図もなかった。福岡県の古賀ゴルフ・クラブをすべての手本にしたという、半紙に書いた見取図だけが頼りだった。途中から、唐津GCを所有する昭和バスが、同業者のよしみで、所属の島村裕正プロを譲ってくれた。
島村プロは、5個のボールを打って平均値をとり、各ホールのヤーデージを決めていったという。
フェアウェイは宇久の牧場から採取した上質の野芝、グリーンは島村が故郷千葉から取り寄せた高麗芝で、昭和32年10月26日、9ホールがが開場した。雲仙G、福田(長崎GC)に次ぐ長崎県下3番目だった。
9ホールでの開場から13年経った昭和45年、佐世保カントリー倶楽部は18ホールに向けた拡張へ周囲の土地買収を開始する。上田治に設計を依頼。同時に九十九島の眺望を活かした新クラブハウスの建設も始めた。
上田治は、既存の9ホールに新9ホールを足すのではなく、18ホールすべてを設計し直した。昭和47年6月9日、新クラブハウスと18ホールになった佐世保CCが誕生した。
佐世保カントリー倶楽部 石盛岳ゴルフコース
長崎県佐世保市知見寺町1410 ☎0956-49-5654
開場日:昭和32年10月26日
コース:18H/6783Y/P72
設計:上田治
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美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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