ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
創業者は中京財界の有名人
大正7年20歳で名古屋野砲第3連隊に入隊。摸範兵となり阿部信行部隊長(後に首相)従卒となる。大正12年26歳、阿部製材所で独立。合板部を設置、合板輸出を始める。昭和14年、43歳。
日中戦争で内需、軍需が膨らみ上海に揚子江木材、東満州に東興木材を設立、軍需合板を中心に馬の鞍、小銃の銃床まで製造。阿部は、軍用機で内地と中国を往復したという。
終戦直前、銃弾の信管という場違いの製造命令に窮した時計メーカー、明治時計を頼まれて継承したのが幸い、戦後中京財界で名を上げる。
さらに昭和25年10月30日、松坂屋、豊田グループが各々1000万円を出資、資本金5000万円、会長・豊田利三郎、社長・佐々部晩穂、副社長・阿部広三郎の東洋プライウッド㈱を創立する。中京財界の重鎮を揃えた、米国復興内需向け高級合板の製造輸出を目的とした企業だった。
“ゴルフは家族で楽しむものだ”という信念
コース敷地は、名古屋の栄から車で25分、守山区吉根の緑地公園の東隣の25万坪、緑地公園の池越えに栄通りのテレビ塔、振り返れば樹林越えに遠くアルプスの山並みの頂きが遠望された。
設計者の上田治に「めぐまれた美しい風致に、私の制作意欲が刺激された」と言わせたゆるやかな丘陵の高見は、もとは阿部個人が一宮市の林紡績から頼まれて買った土地だった。
住宅地にする計画だったが、守山市が、家が増えると学校も増やすことになると渋り、「それならば」とゴルフ場の建設に決まった。
なぜパブリックだったなのか。ゴルフ好きの阿部は「米国はパブリックコースも多い。家族連れで楽しむのが常識だ。私は大衆のものとしてやりたい、不結果に終わっても自分の土地だから…」と語っている。
昭和34年11月8日、18ホール・6800㍎・パー72、2グリーンのパブリック制で開場した。
その後、昭和39年3月に会員制のクラブに移行した。
緑ヶ丘カンツリークラブ守山ゴルフ場
愛知県名古屋市守山区大字吉根字長廻間3241 ☎052-795-1111
開場日:昭和34年11月8日
コース:18H/6809Y/P72
設計:上田 治
緑ヶ丘CCの公式サイト
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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