ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
所在地は米子市三柳海岸。昭和13年6月、三柳海岸の40万坪の土地に逓信省航空乗員養成所と米子飛行場が生まれる。
そして戦火の拡大につれ、飛行場は東京→米子→京城→奉天→新京を結ぶ国際空港となり、東條英機もここから搭乗したことがあった。
戦後は英空軍が進駐、接収した。飛行場跡地に〝草ゴルフ〟が芽生えるのは昭和32年頃から。
鳥取砂丘で県下初のサンドゴルフを始めた小川草太郎が米子に転勤、飛行場跡地で赤土グリーンの3ホールのゴルフを始めた。
ゴルフ仲間は3人、3ホールから、6、7、9ホールと拡大、昭和34年8月には米子ロータリークラブも加わって「米子ゴルフクラブ」が発足、12月には18ホールとなった。
昭和35年4月、飛行場跡地が国から市へ返還されたのを契機に「米子にも本格的なゴルフ場を」との気運が盛り上がっていく。
昭和30年代にしては「破格」の長大コース
昭和37年10月、跡地を米子ゴルフクラブに貸与したのをきっかけに「米子カントリークラブ」に発展。
翌38年1月には、人気設計家の上田治がコース予定地に入って地鎮祭、8月には早くも第1期工事15ホールを開場、「米子カントリークラブ 皆生コース」と命名。翌39年5月、3ホールを増設し18ホールとなる。
「田舎臭い、チャチなものを造ったという批判を最も恐れた」(創立時の浜口平兵衛理事長)というだけに、できあがったのは18ホール、7040㍎、パー72の当時として破格の長大コースだった。コースを設計した上田治は、「後はメンバーの努力で」と言い残した。
それから24年、昭和51年4月クラブの運命は急転する。米子市がゴルフ場用地の買取りを要求して、鳥取地裁米子支部に提訴。さらに3年を経て56年9月にようやく市に返還。市はゴルフ場として経営する条件で和解、公営「米子市ゴルフ場」となった。
明け渡しに当たり、クラブ側は人手と金を惜しまず文句のつけようのない状態で市に引き渡し、その心意気は語り草となった。
米子ゴルフ場
鳥取県米子市両三柳3192-2
☎0859-29-4444
開場日:昭和38年8月25日
コース:18H/6364Y/P72
設計:上田 治
公式ホームページ
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
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