今回はダメだろうと
腹をくくった
昨年10月13日、日曜日の朝、松澤淳二は夜が明けるのを待って、荒川の堤防に立った。予想していたとはいえ、慣れ親しんだ赤羽のゴルフコースは、完全に荒川の流れの下に沈んでいた。
そこにゴルフ場があったことを知らない人間が見たら、ただの巨大な濁流の川にしか見えなかっただろう。
台風19号が関東地方に接近している。上陸の3日前に河川を管理する国土交通省からの「接近しています。準備してください」との知らせがあったが、それを待つまでもなく、インターネットでチェックしていた松澤は、万全の備えをして上陸を待つばかりの態勢を整えていた。
スタート小屋のプレハブをクレーンで吊り上げるなど、ゴルフ場内の構造物すべてを堤防の外に運び出す撤去作業は、11日に完了していた。
運よく台風の進路が変わり、万全の備えが杞憂になることを願いながらも、松澤は「今回ばかりはダメだろうな」と腹をくくった。
1957年に開場した赤羽ゴルフ倶楽部は、荒川の増水でこれまで15回の冠水被害を受けている。15回目は2007年、台風9号が、熱帯低気圧に変わった際の豪雨によるもの。当時は、ほぼ3年ごとだから、冠水対応は手慣れたものだった。
しかし、荒川上流域の治水事業が進んだこともあり、異常気象と言われながらも、ここ12年間は冠水被害には至らなかった。
堤防の上から松澤は、ゴルフコースがあったであろう水面を見てもショックは受けず、「ついに来たか。12年ぶりだな」とつぶやくだけだった。
水位は12年前の時よりも
2メートルも高かった
松澤は、専修大学ゴルフ部の出身で、卒業後は川崎国際CCの研修生を経て、1985年にプロテストに
合格。ツアープロとして転戦しながら、レッスン活動もしていた。その後、赤羽GCに就職しキャディマスターを担当。
2004年に、支配人の職に就いた。キャディマスター時代を含め、松澤は、1999年、2001年、2007年と3回の冠水被害を体験している。
しかし、今回の水量は圧倒的だった。
ゴルフ場を30日間クローズした前回、最寄りの観測所の水位は5.09㍍だったのに対し、今回は7.17㍍。2㍍以上も高かった。
松澤は長い闘いを、覚悟した。
赤羽GC付近の荒川は、本来の川の流れに沿って小高い内堤防があり、その外側に大災害に備える本堤防があるという2重構造になっている。その内堤防と本堤防の間に、赤羽GCはある。アウト3344㍎(パー37)、イン2907㍎(パー35)の18ホールを展開している。
内堤防を越えて濁流がゴルフ場内に入っているため、荒川の水位が低くならなければ、水は引かず復旧作業には手が付けられない。
15 日火曜日、最も上流にあり、また砲台になっている13番グリーンが水面から顔を出した。作業開始だ。
内堤防の上は砂利道になっており、そこを通って13番に向かう。そして、ゴルフ場所有の消防車で、グリーンへ放水して、ヘドロや川砂を洗い流すのが最初の仕事だった。
次に11番と18番グリーン、そして練習グリーンも顔を出した。
赤羽GCのグリーンは高麗芝。ほぼすべてのグリーンが砲台で、アンジュレーションが強い上に、コンパクションは硬く、芝目もきついのが特徴。多彩なアプローチや芝目の読みなどを要求するから一筋縄では攻略できない、玄人好みのグリーンと言ってもいいかもしれない。
お客さんから「今日のグリーンもコンディションがよかったよ」と言われるのが、松澤の何よりの喜びだ。その18ホールすべてのグリーンからヘドロを洗い流す作業を1週間で終えた。
しかし、問題は山積していた。
12年ぶりのせいか、ゴルフ場を覆うヘドロは前回と比べ物にならないほど大量で、流木、小型ボート、ホームレスの小屋、その他大小さまざまなゴミが流れ込んでいた。
大きなゴミの処理は業者に依頼したが、堆積したヘドロや川砂の除去は、コースの従業員30~40人の手作業になる。
ヘドロの堆積が薄いところはポンプの放水で流せるが、10㌢以上にもなると、重機で剥がすしか方法がない。そうやって、本来のコース表面が姿を現わすまで、作業を続ける。松澤は陣頭に立った。
「この作業は1カ月は必要だろう」と松澤は思った。
秋のゴルフシーズン真っ只中。予約も入っている。「11月末までクローズ」という情報を発信した。前回の冠水は8月15日だった。作業は炎天下だった。
ところが今回は秋から冬という季節。寒さと戦いながらの作業になった。松澤が初めて冠水を体験したときは、38歳だった。
「僕も、もうじき60歳ですから、寒さは身に染みました。従業員も僕と同じように高齢化しています」と松澤。
寒空の作業を
続けるスタッフに
温かい食事を用意した
最高気温が7度という日もあった。「まだ先は長い。今日は半日で切り上げよう」と従業員の体も気遣った。50㍉の雨予報が出た日は休みにした。
コース内からかき集めたヘドロをプレーイングゾーンではないところに小さなマウンドのように積み上げたり、遊休地へ運び込んだり、午前7時から始まる日々は、単純作業だが、重労働だ。
「そんな毎日のなかでの楽しみは?」と尋ねると、「お昼ご飯でした。冷えた体に温かいスープが出ると、本当にホッとしました」と言う。
赤羽GCのレストランは外部委託だが、クローズの間も従業員のために1ヵ月間便宜を図ってもらった。
配膳カウンターの横に「明日のメニュー、ハンバーグ定食」などと張り紙があり、午前中の作業をしながら「今日のお昼は何だっけ」、「ハンバーグって書いてあったよ」などと従業員の楽しみにもなっていた。
再開の目途が立った11月25日、12月7日からオープンするというインフォメーションをホームページに掲載した。
そして、880人の正会員にボランティア募集の連絡をした。開場から63年の倶楽部だ。メンバーもやはり高齢化している。
それでも12月1日の日曜日に50~60人ほどのメンバーが駆けつけてくれた。平均年齢は60代半ばぐらいであろうか。
スコットランドのリンクスのように、手引きカートで回るこのゴルフ場を愛してやまない人たちでもある。
半数は場内に残っているゴミの回収部隊、残りの半数は目土部隊だ。目土と言っても、重機で剥がされたり掘られたコースに砂を入れる作業。小型ダンプに乗せた砂を、スコップで撒くのだから、これは重労働だ。
「支配人、そんなへっぴり腰じゃあダメだ。オレがやってやる」などと威勢のいいメンバーもいた。
取材に訪れた日、松澤と一緒にコースを歩いてみた。
ホールの両脇には、こんもりとしたマウンドが点々としている。まだ土の地肌がむき出しだが、春から夏へと雑草に覆われて緑になるのだろう。
カートを引きながら談笑しているカップル、仲間同士でにぎやかな4人組、黙々とひとりでプレーする人、次々とプレーヤーが通り過ぎるなかで、重機が今も泥土を運び続けていた。
かつての姿に戻るのには、まだまだ時間が掛かりそうだ。
河川敷の宿命
松澤が「あれを見てください」と指をさした。「あのうっすらと見える線が、昔の荒川の堤防の高さだったんです。今回の増水は、あの線より高かったんですよ」と言う。
指の先に目をやると、土手の高さ4分の3あたりに、断層のような横線がぼんやりと見える。もし、昔のままの堤防だったら、東京の下町は大変なことになっていただろう。
「もう来ないでくれと祈るばかりですが、このあたりは家が流されたわけでもないし、人の命が失われたわけでもない。そう考えれば、これは河川敷の宿命だなと、受け止めるしかありませんね」と松澤は言った。
ゴルフというゲームを、庶民のスポーツへ導いてくれた河川敷のゴルフ場。その役割は、まだまだ終わらない。
週刊ゴルフダイジェスト2020年4月14日号より
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