ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェスト誌で「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと公開しています。
大正3年12月、鳴尾競馬場跡へ移転、鳴尾ゴルフアソシエーションを設立。大正9年会員の減少で、鳴尾GAは解散、土地を鈴木商店に返却する。その跡に同社社員を中心にメンバー38名が「鳴尾ゴルフ倶楽部」(3ホール)を設立。大正9年初夏である。
大正13年芝グリーンの18ホール・5080㍎・パー68に成長。ところが土地の所有者の鈴木商店が倒産、所有権が浪華倉庫に移り、立退きを求められる。昭和2年7月17日。6030㍎・パー72のコースが実現してすぐのことだ。4年6月6日、川辺郡東谷村大字西畦野の猪名川渓谷沿い15万坪(現在地)を探し当てる。
設計はH・C・クレーン。工事はすべて人力で行われ、ハウスは浜コースから旧ハウスを移築、着工から11カ月、昭和5年10月12日開場式を行なった。昭和14年鳴尾競馬場跡の9ホール(昭和4年6月縮小)を閉じるまで、鳴尾GCは、山コースと浜コースを持つ贅沢な倶楽部だった。
戦後、コースを設計したクレーン兄弟がコース復活を呼びかた
昭和5年、東京GC朝霞コース、廣野GCの新設で来日中のC・H・アリソンが訪れて視察。翌6年に4番、10番を除く16ホールの改造を勧告している。名物の15番パー3のバックティを現在のように道路越えの正面丘に移したのも、この際の勧告による。
昭和12年日中戦争が勃発。昭和19年8月6日「軍は必要により猪名川打球場を徴用する」という一片の紙切れで接収。クレーン3兄弟は、敵国人として軟禁される。そして敗戦。解放されたクレーン兄弟が、まず「コース復活」を呼びかけた。昭和22年3ホールの復旧開場、23年7月12ホール、9月15ホール、24年8月7、8、9番の芝植を最後にようやく18ホールが揃って、完全復活した。
鳴尾ゴルフ倶楽部
開場日:大正9年10月
コース:18H/6616Y/P70
設計:H・C・クレーン
兵庫県川西市西畦野字金ヶ谷1-4
☎072-794-1011
公式サイトはこちら
取材・文/田野辺薫
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
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