ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
星野は藤田欽哉に相談し、その後に井上信、赤星四郎と広がっていき、昭和4年1月にカンツリー倶楽部を創立。華族と財閥は例外的に5名だけ、各界の現役トップ、新しい帰朝者を中心に揃えたたところが、東京GCとは対照的だった。
同年2月には測量を開始。設計は井上信、赤星四郎、石井光次郎、清水揚之助、藤田で分担、藤田と赤星が全体をまとめていった。
昭和4年10月に開場(現在の東コース)。昭和7年6月に西コース開場。西コースの設計は井上誠一が担当した。
東洋一のパー3、霞ヶ関の東10番
話を東に戻す。霞ヶ関CCのコースは、10番を語れば、その魅力の半ばを語ったことになるとも言われた。池の上に両側から老松が枝を張り、その向こうのグリーンがやや高い、まさに日本の庭園美だが、このホールを有名にしているのは、グリーン正面の身長よりも深い大バンカーだ。人呼んでアリソンバンカー。これがあるから東洋一のパー3にも選ばれた。しかし、なぜか設計家の中にアリソンの名はない。
東の10番は、赤星が担当した。昭和5年にアリソンは、頼まれて全18ホールの改造案を出している。10番については「グリーンの前にバンカーを造れ」と勧告、オーバーハングの悩ましくも深いアリソンバンカーの登場が10番、156㍎を東洋一のパー3にしたのだ。
パーシモンヘッドと当時のボールでバッフィ(4番ウッド)で打つか、バンカーを避けて左のラフへ落とし、そこから2オンのパーセーブを狙うといった難ホールだった。
平成7年の日本オープンでは、ジャンボ尾崎がこのバンカーから脱出に失敗、「5」を叩いて二連覇を逸した。
コースの不滅の記録は、昭和32年10月24日〜27日、カナダ杯国際大会で、中村寅吉、小野光一ペアが、団体、個人ともに優勝したことである。2020年の東京オリンピックではゴルフ競技の会場となった。
霞ヶ関カンツリー倶楽部
開場日:昭和4年10月6日
コース:18H/7466Y/P71(東)
18H/7117Y/P73(西)
設計:赤星四郎、藤田欽哉(東)、T・ファジオ&L・ファジオ(東・2016年改造)
井上誠一(西)
埼玉県川越市大字笠幡3398
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取材・文/田野辺薫
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)