別府ゴルフ倶楽部は、大阪商船が泉都別府の魅力づくりとして造った社団法人別府ゴルフ倶楽部と、戦後昭和29年島崎観光グループ傘下に入ってからの事業と、ふたつの歴史の継木によって成り立っていった。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

社団法人別府ゴルフ倶楽部は、別府郊外豊岡のさらに奥の〝道に迷いそうなくらいひろい高原〟に造られた9ホールとして始まった。開場は昭和5年8月4日。九州では4番目、現存するコースとしては雲仙に次いで2番目の古いコースだ。

画像: 16番ホール/189㍎/パー3(鶴見)打ち下ろしのパー3。左側にあるマウンドを狙い、転がしてオンさせるのが安全策のひとつ

16番ホール/189㍎/パー3(鶴見)打ち下ろしのパー3。左側にあるマウンドを狙い、転がしてオンさせるのが安全策のひとつ

設計は、日本のプロ第1号福井覚治とアマの先達伊藤長蔵の共同設計。1本の木もなく広がるススキ野を見て、伊藤は、スコットランドにそっくりといい、また「英国ではバンカーに砂を入れないものだ」と、戦後になっても砂なしのバンカーが続いた。

大谷光明と共に渡米してコース設計、築造を学び、後に広野でC・H・アリソンの下で働く伊藤には、終生スコットランドの憧憬が消えなかったのだろう。戦前に18ホールとなるが、それがいつのことか年史では、昭和15年頃では、と言葉を濁している。

画像: 12番ホール/414㍎/パー4(鶴見)やや右ドッグレッグしていて、飛ばし屋は2オンできるが、バンカーや松林には注意。フックでは距離が残る

12番ホール/414㍎/パー4(鶴見)やや右ドッグレッグしていて、飛ばし屋は2オンできるが、バンカーや松林には注意。フックでは距離が残る

伊藤長蔵設計特有の英国残影

敗戦。財閥解体が進む中で大阪商船が、コースを手離した後、米軍が進駐、接収と変転する。昭和29年島崎悦吉が買収したときには、フェアウェイとラフの境目がないほど荒れていた。しかし、和白、古賀のふたつの名門コースの立ち上げに奔走した島崎には、これからゴルフが流行するという予見があった。

別府ゴルフ倶楽部の92万坪の用地にはまだ27ホール、36ホールへの拡大を許す広さがあった。買収の翌年、30年8月には9ホールを増設、九州初の27ホールとなった。

92万坪に造られた27ホールは、「横に打ってもOBが出ない」と評判だった。平成5年さらに9ホールを増やして、現在36ホール。設計は全て島崎悦吉である。

最初の9ホールが生まれて75年、92万坪の高原を持つ大きなスケール感と、伊藤長蔵設計特有の英国残影が今も生きていて印象的だ。

別府ゴルフ倶楽部
開場日:昭和5年8月4日
コース:18H/6842Y/P72(鶴見)
    18H/6966Y/P72(由布)
設計:島崎悦吉(福井覚治、伊藤長蔵)
大分県杵築市山香町久木野尾1753-4 ☎0977-44-6002
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美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

取材・文/田野辺薫

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画像: golfdigest-play.jp
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