現在の那須国際カントリークラブは、東急不動産㈱経営のメンバーシップコース。しかし前身は、高級旅館「山楽」が経営するパブリックゴルフコースだった。

ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。

東京八丁堀の鉄屋会社が居ぬきで買収

旧山楽旅館は、大正11年北海道選出の代議士・三井徳峰の創業。敷地3000坪に延1000坪の木造2階建矩形の建物を、東西巽向きに開いた豪壮な構えだった。

館内に今も残る30畳敷の「御座所の間」は、大正の終わり、昭和天皇が東宮の頃、「山楽」のこの部屋から那須高原を一望したという記念の日本間で「山楽」の名を有名にした。大正14年御用邸ができると、随伴する大臣など高官達は、「山楽」に宿泊するのが習いとなった。

画像: 8番ホール/326㍎/パー4 右ドッグレッグのパー4。ティショットは打ち下ろしになるが2打地点からグリーン方向は急な打ち上げになる。グリーンまでの距離が把握しにくい

8番ホール/326㍎/パー4 右ドッグレッグのパー4。ティショットは打ち下ろしになるが2打地点からグリーン方向は急な打ち上げになる。グリーンまでの距離が把握しにくい

昭和28年、格式ある山楽旅館を経営危機が襲う。富士製鉄・永野護社長の仲介で、丸ごと居ぬきで買い取ったのが、東京八丁堀の鉄屋・木下商店(木下茂社長)だった。同社は、八幡製鉄、富士製鉄の指定問屋として知られていた。

昭和30年代、木下商店は貿易商社・木下産商となり、木下商店は不動産中心として残り、子会社㈱山楽を設立、ゴルフ場温泉会社としての発展を狙う。ひとつの動機があった。

画像: 9番ホール/364㍎/パー4 右ドッグレッグの谷越え。右ラフにある岩を越すと残り距離は僅かになる。グリーン周り、特に左側は要注意

9番ホール/364㍎/パー4 右ドッグレッグの谷越え。右ラフにある岩を越すと残り距離は僅かになる。グリーン周り、特に左側は要注意

輸入したケンタッキーブルーの種子をまき、フェアウェイを作った

名門の那須ゴルフ倶楽部 は、土日はメンバーだけ、木下社長には、頭を下げないですむパブリックを造ろうとの思いが募る。赤字覚悟だった。

昭和34年用地30万坪買収。設計は富澤誠造だが、詳細設計は大御所の浅見緑蔵。永野護の紹介で入った東山宝一社長は、剛腕の人だった。パブリックだから資金は不足気味、冬は工事中止。ブル数十台を動員して土木工事を強行、工事費の遅払いで造成会社を倒産させたという。 

画像: 4番ホール/410㍎/パー4 右ドッグレッグのミドルホール。ティショットは左狙いが賢明

4番ホール/410㍎/パー4 右ドッグレッグのミドルホール。ティショットは左狙いが賢明

画像: 初心者から上級者まで楽しめるコースセッティング

初心者から上級者まで楽しめるコースセッティング

昭和37 年5月11日開場。18ホール・6860㍎・パー72。貿易が本職の木下産商が、米国からケンタッキーブルーの種子を輸入、全域に播き芝をし、短く刈り込んでフェアウェイ、さらに刈り込んでグリーンにした、と当時を知る人は語る。翌年ラフ、フェアウェイは野芝、グリーンはベントの張り芝に改修、現在に至る。

那須国際カントリークラブ
栃木県那須郡那須町高久丙1792 ☎0287-76-2800
開場日:昭和37年5月11日
コース:18H/6600Y/P72
設計:浅見緑蔵、 富澤誠造
公式ホームページ

取材・文/田野辺薫

美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)

お気軽にご相談ください↓

お問い合わせ

お問い合わせ方法を下のボタンから選んでタップください。

画像: golfdigest-play.jp
golfdigest-play.jp

This article is a sponsored article by
''.