ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
所在地は、飯能市芦苅場495。飯能は「判乃」に由来する。鎌倉時代関東で勢力をふるった武蔵七党のひとつ丹党の一族、判乃氏がこの地に拠ったのである。もっと遡れば奈良朝、甲斐、武蔵の渡来高麗人を、入間川の渓谷部落に集めたともいう。
霞ヶ関CCの東コースがそうだが、名コースにはしばしば名10番ホールがある。飯能GCの10番ホールもそうだ。池越えの第1打は、左の林側へ傾くフェアウェイの左を狙う戦略的なパー4。その池を鯉ヶ久保池という。
ハンディキャップ15を念頭に作られた
10番の鯉ヶ久保池には、“恋ヶ窪”伝説がある。池の上手に男河童、下手に女河童が住んでいた。ある年、渇水のため池が乾上り、逢引きが出来なくなり嘆き悲しんだという。そんな昔物語が残る土地柄の飯能市芦苅場に、ゴルフ場計画が動き出したのは昭和32年頃。
まだ朝鮮動乱景気の名残りがある昭和30年、その土地には日本セメント工場誘致の話が進められていたが、降灰公害を心配する地元の反発で、計画は失敗する。その後、青梅GCを造った経験をもつ参議院議員の平島敏夫がゴルフ場新設を提案した。
当初、理事長職だった大東文化大学を移転させる計画だったが、現地を見てゴルフ場に変更したと年史に記述がある。
会社設立は、元会計検査院長 東谷伝次郎と社長、理事長で進められた。開場は昭和34年11月。コース設計は、井上誠一の後を受けて鷹之台CCを完成した和泉一介だった。
設計に際し、「ハンディキャップ15を念頭に造った」と言っているが、霞ヶ関、東京よりも難しいという声も意外に多い。
飯能ゴルフクラブ
埼玉県飯能市芦苅場495 ☎042-972-3680
開場日:昭和34年11月26日
コース:18H/6910Y/P72(Aグリーン)
設計:和泉一介
公式ホームページはこちら
美しい日本のゴルフコースより(弊社刊)
取材・文/田野辺薫
飯能GCの最新会員権相場をチェック