ゴルフコースことはじめ
文芸評論家を経て、ゴルフジャーナリストとしても活躍した田野辺薫氏。ゴルフコースの目利きとして全国のコースを取材し、週刊ゴルフダイジェストで「ゴルフの歴史を歩こう」を連載(2005~2013年)。それを一冊にまとめた「美しい日本のゴルフコース」から多くの人に名コース誕生の歴史を知ってもらおうと再編集公開しています。
「奈良にもう一つ、ゴルフ場があってもいいのでは」
昭和25年7月、奈良国際文化都市建設法が国会を通過、適用される国際都市「奈良」にはゴルフ場が必要だと、上田治設計の奈良国際GCに加えて、「もう一つゴルフ場があっていいのではないか」と動き出したのが、当時の奈良市長・高椋正次と市議会議長・河合利喜蔵の二人。
実働部隊は奈良市水道局と建設局。事務所は水道局内に置かれた。昭和31年3月1日第1回準備委員会を開催。その中に王龍寺住職・飯野純道の名がある。広大な土地持ちの王龍寺が協力したことで、計画は一歩進む。
黄檗宗の海龍山、王龍寺は、聖武天皇の勅願によって建立された寺格の高い名刹で、盛んな時は正月堂など僧房10000軒といわれたが、戦国期に筒井順慶の乱で兵火に焼かれ衰亡。
昭和30年当時は、国道から歩いて農道を20分「まったくぞっとするような淋しい不便な土地でした」(初代河合利喜蔵社長の言葉)という状況、文字通りの隠れた名刹と化していた。その土地を「ゴルフ場で良くなれば、地元の発展になるならと協力した」と故・飯野純道の子、純紹は語っている。
寺の敷地に生まれた「王隆寺GC」が「飛鳥CC」のルーツ
昭和32年7月15日王龍寺ゴルフ㈱設立。社長の河合利喜蔵(市議会議長)が33年9月6日建設起工式。設計者・上田治の診断は「王龍寺の土地を中心に9ホールが精一杯」だった。山また山の難しい土地だったが、昭和34年11月に9ホールで仮開場。
18ホール態勢が整うのは同年12月、名誉理事長・市川忍(丸紅飯田会長)理事長・上野次郎男(積水化学社長)キャプテン・八谷泰造(日本触媒社長)を役員とする王龍寺ゴルフ倶楽部が結成され、関西財界のお歴々が集まり出してからだ。
翌36年1月24日、王龍寺ゴルフ㈱は飛鳥ゴルフ㈱に、38年3月王龍寺ゴルフ倶楽部は「飛鳥カンツリー倶楽部」と改称、その年の11月に18ホール・6205㍎・パー70が開場。昭和41年5月27日、佐伯勇近鉄会長が、近鉄奈良線の沿線開発を掲げて経営参加したことで、王龍寺からの親離れが決定した。
なぜ王龍寺から飛鳥へだったか。オウリュウジは法隆寺と間違えられるのでイヤという説など色々。アスカは、古代大陸の人々が理想郷と呼んだ安宿(アンスク)に由来するという記事も残っている。
飛鳥カンツリー倶楽部
奈良県奈良市二名7-1441 ☎0742-45-0881
開場日:昭和34年11月8日
コース:18H/6646Y/P71
設計:上田治
公式ホームページ
取材・文/田野辺薫
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